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 痛手を負った身体と精神世界から生きるしくみを 作りなおしています。  人と人がフェアトレード できる社会、幸福感を作ります。
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過日 弁護士会主催の法律講座に参加した。

今更ではあるけれど 法律の玄関口から 考え直そうと思ったから。

私達は 総体・・ 「いきあたったもの」と向き合ってきた。 そのため 法廷や訴訟の

教科書を学んだわけではない。 誰しも 縁がなければ 裁判や訴訟とは関わらず生きるに

こしたことはない。  トラブルが 法的に発展するのは 常に関わる人達が 目の前にいることが

最大の要因だと思う。  わかりやすく言えば 自分の目の前に弁護士がいるかどうか・・・・

 この講座は隣人トラブルと法律に関してで 受講者は 見渡してざっと40人くらい。 質問者の

内容を聞いていると ほぼ 「裁判にはまだまだ程遠い」と感じた。  あの経験がなければ私もおそらく

同じレベルの質問をし、「興味ある講座」の一つとして受講していたにすぎない。

最も「あの経験」がなければ 講座に参加もしなかっただろうと思う。 切羽詰った人は 中にはいそうもなく

まして 「あの経験」のあと 生活もままならないまま この門をくぐる人はいないだろう。 私の目線だけが

他の人と明らかに違っていた。   講座の中で 私は 「民事」と「刑事」の違いを改めて学ぶことになる。

 私は 縁あって出会った二人の弁護士さんと 五年前から 裁判沙汰に関わっていた。 縁あってというのは

親戚の娘さんの勤める弁護士事務所の弁護士が 奈良に来たときに 相談に乗っていただいた縁だ。

ここに もう一人の弁護士が加わって 約4年弱 訴訟に関わることになった。 時間も打ち合わせも限られて

いた。 これを私は「民事の勝手口」から 関わったと表現する。  講座を受けた理由の一つは 自分たちの

「これまで」と「これから」を整理して 「どれが許せないこと」として残るかにたどり着き 行動するかを見極める

ためである。  裁判は 私的には 「しなければ解決しない状況」になって初めて苦渋の選択をすると

思っていたが、民事は「やりたいからやる」ものだと聞かされた。 そうなのかと思う・・・・やりたいからやるのなら

お金があり 目の前に専門家がいて 言われる書類が整って 「勝つ」と分かっていたら そりゃあ、したいだろう。

と思う。  これが 民事の「正しき」であるらしい。 (法律をおかしても法律の専門家を雇っていたらそれだけで

安心ゾーンにいるといえなくもない)  したい環境にあるならば いくらでもできるのだと言える。 

(社会がそうなっているので)相手からすれば (できない人間は)甘いというわけだ。 一方 刑事は

終着点が違う。  お金の問題ではない。  それにしても この格差たるや酷いものだと思う。

 私は五年前 最初に出会った弁護士が 「感情はいれないほうがいい」と言ったことを思い出した。

しかし 相手は明らかに 「感情」のもとに 行動しているではないか。  不思議な日本である。

さて・・・・未解決のまま。 どこへ終着点を持っていけば人生を悔いなく生きられたといえるか。

目的は勝つ負けるではなく 「人生を悔いなく生きること」 最後まで生きよ・・・・・この私を・・・・・。
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