忍者ブログ
 痛手を負った身体と精神世界から生きるしくみを 作りなおしています。  人と人がフェアトレード できる社会、幸福感を作ります。
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


お金がないのは大変だ。   生活の最低限度は必要だ。

でも もっと重い重い病気は 「人間不信」。 これは魂の傍らにへばりついてとれなかった。

これは 体験しないとわからない。  この病気を克服するのに ものすごく時間がかかった。

「何事もないように」 生きていた。   だけど 引き出しに こぼれる 世間を信じない傷みは

時にあふれかえり 凝固した。   徹底的に信じることは なくても 何でもない話しを

隅々まで疑ってかかっては つながりなど作れなかった。    

   ある日 親しいサークルのボスが 何となく そっけないと感じた。  「気のせい」と過ごして

きた私だけれど ここでレッスンをしてみる。  ショートメールで 「私について何か言いたいことが

あるんじゃないかな?」 と尋ねた。  「私には心当たりが全くないんだけど・・・・」と返ってきた。

それで そこで素直に謝った。 「ごめんなさい。 今まで感じたことは全部いい方に考えて生きてきた。」

「だけど それは事実と違っていたんだと思う。だから今度は悪い方に感じたことを正直に言うことにした。」

それで事実が確かめられる。 違っていたら ごめんなさいと謝ろうと思って尋ねた・・・・・と。

「私が腑に落ちないことを尋ねた時は人間関係のレッスンをしてるんだと思ってほしい」と付け加えた。

誰もがひどい嘘をつくわけではない。   誰もが 急に人を陥れるわけではない。 そう思う自分を

いくらか回復する必要があった。    そのために できるだけ多くの人に 事実を話すように努めた。

辛い書類を丸ごと見せるときもあった。  偏見で相手が離れて行ったらそれだけの関係だと受け止めた。

だけど・・・・・本当のことを出すことで 意外と いい関係も深まった。  とにかく 一度はぶつかることにした。

月日をかけて 誤解を産みながらも 最後は理解できる つながりへと 一人一人について努力した。

もちろん、 何か起こる前の数年前の自分に戻ることはできない。  でも 自分を見失って変わってしまうことと

成長は違うと 先輩は言った。  私もそう思う。  だから 今も人間関係の治癒を自分で行なっている。

人との関係のプロセスを低いハードルから越えていく。  丸ごと嘘をついて目をそらす 権力者に心まで

抜き取られたくないと思った。

PR

私はたまたま事情もあり ここまで来てしまったわけですが、

ほかの人が追い詰められたときに 同じやり方で乗り越えられるかというと

これは全くの無理だと話しておきます。   逃げ道のある人はそうしたほうがいいでしょう。

これは 後々 返済が押し寄せてくるばかりでなく 後遺症も残りますから 人生に大きな

支障をきたすことになります。  差押えはそれが分かっていて実行されています。

 「相手は死んでも構わない」から実行されるといっていい。  事業を始める前から私は借金は嫌い

でした。  カードも使ったことがありませんし使う気もなく生きてきました。それは・・・・裕福な人生だったからでは

なく 「借りない」主義で生きてきたからでした。  お店を閉めるに追い込まれて あすが見えない闇になった

時も 足元を見て 小さなお花の苗を買って生きる力に変えてきました。 何もない闇を歩き続けました。

 マイナスの中を生き続けました。  ある人が「うつ病になるような人はひたすらマイナスの中を生きるエネルギーを

持っているのだからとてつもなく生命力のある人なのだ」 と言っていましたが 正しいと思う。だけど・・・・

まあ・・・・・「生きてさえいたらいい」というものでもなくて(笑)  押し寄せるものでトラウマにもなり 障害も負って

しまったといえます。     要するに 会社と個人店は対等ではありません。  裁判でも 顧問弁護士がいたり

必要なときに社を人に任せて法廷に出ることもできる 自由自在な組織とは格差があるのです。

それにしても・・・・・法廷とは 別に嘘を言ってもいい場所だとは思いませんでした。 裁判で嘘をいうなら

誰しも 嘘で塗り固めた人が 正しいということにもなってしまう。  裁判て 法廷って何のためにあるんでしょう。

 とにかく 私たちを見て 「何とかなるんだ」と思う人がいたら それは間違いです。  押し寄せるものは

半端ない。  そういうことがわかっていて 容赦なく切り捨てるんです。 どうしたらいいかわからなくて

現状にとどまって 見た目 変わりなくいると「何を普通に暮らしてるねん!」と 裁判をかけてくる。

あわてふためいて苦しみもがく姿をみて 「当然」と思うようです。 人の苦しみを見て自分が落ち着くなんて

全く歪んでいます。  自分が有利な裁判をしていても まだ腹を立てている。 廃人寸前まで追い込みます。

だから 私達のように やってみることを私はすすめません。  たまたま逃げ道もない自分だっただけです。

そして私は遅ればせながら 気づきます。 受けたことはちゃんと受けたこととして 相談をして向き合おう。

父母にかえってくる仕打ちが怖かったけれど もう時間もない。 真っ直ぐに出るべきところに向かおう。

人生は今しかない。  消耗した 命を取り戻そう。  今日の自分のために。 明日の自分のために。



半年ばかりの間、私は県南と県北を往来して 心と身体のメンテナンスを続けてきた。

それは医療機関に通うことではなく、自ら人に会い、或いは近づいてきた人に関わり、

その人間関係の進展を 怖がらずに受け入れ、トラブルになっても 逃げずに関わりながら

生きる姿勢をもう一度取り戻そうとするものだった。  強い人にも 優しい人にも 関わり続けた。

心が通う時に、その心の持ちようと 現実の問題とを 切り替えて解決へと努力を惜しまなかった。

 その 自然治癒力を取り戻すための ある療法も 人に受けさせてもらった。   相手も修業中だということで

何と無料で。  その結果、何か答えを追求するあまり 私は深い神経衰弱になってしまった。

「精神的努力の末に起こる・・・・・」 と辞書にはある。  頭がぐらぐらとして 今にも倒れそうになりながら

ふと ここ2,3日・・・・・甦り出した記憶がある。  それは フランチャイズの終焉近く、取引を中止して

看板を取りにきて 壊れてしまうまでの 最後の一箇月のことである。   その最後は 悉く大変であった。

週払いで 払い込める仕入れだけをし、残りは調達しながら 膨れ上がった食数をこなしていた。

 「危険な状態」ということが 朧気に推察されたが自分らの足元に火がついているのにもかかわらず、

わたしは本部にこの事業一本の不可能を知らせ、自分たちも本部も両方が助かる方法を考えていたのだ。

身の程知らずだが これは事実である。  最後の一箇月に ある日 「私に一案があります」との旨を書き

危機を乗り越える方法を発案し 本部もやり方を考え直してもらおうという努力の跡形がたしかにある。

最後の一箇月の私からのファクスを 彼らはどうしただろうか。  裁判に役に立たないと処分しただろうか。

私はたしかにあの時、 加盟店と本部の両方を成り立たせる方法を一生懸命考えていた。

そして 話し合うべく 機会を本部に申し込んでいた。   これは 本来 本部の仕事なのではないだろうか。

命懸けの事業の方法を申し出ているにもかかわらず相手は 取引をやめてしまったのだ。

 私の頭が 傷を負うのは当然だと思う。  これらのことが 徐々に はっきりと 思い出されてきた。

伝達したファクスは 最低2枚はあった。  弁護士にも一部は渡っていたのではないかと思う。

私達がその後、呆然と 裁判になる行方を 見るまで 私は 何度も 法廷の事前解決を望んでいた。

にもかかわらず、訴訟は起こってしまったのだ。  私の心の不信感、望まずして戦争になったしまった過去の

戦争体験に似ている。聞く耳をもたない傲慢な権力の集まるところ。 私は会社と加盟店の両方が成り立つ

解決を考えていたのだ。 そして それを 提言しようという矢先に 取引を中止されたのだ。

その失意と壊れた心は 人生を壊されたに等しい。  金銭だけの問題ではない。 この事実を私はまた

伝えなければならない。   私のメンテナンスに力を貸してくれた 皆さんに 何とか報いるために。

そもそも 私達はどうも 優雅に見えている嫌いがある。 日本の今の基準からいえば

「金がないのに 何 落ち着いてるねん」・・・・と思われていて 「そんなに落ち着いてるのは隠し金が

あるんやないか」 とまで思われていたんだろう。  お金は数年前も今もない。 ないの一語に尽きる。

正確に言えば 「金がない事実を忘れて生きていく」と言えばわかるだろうか? 誰しも貯金や保険や

何がしかの 普段手元に置かない財産が多少あって 勿論 覚えてはいるのだが 毎日 そのことを

考えて暮らす人は少ない。 つまり  まあまあ暮らせる人というのは そういう僅かな預金には手を付けず

何とか暮らしながら「お金がない」と愚痴りながら 生きている人口が多いのだと私は思う。  でも

私達にはその 預金なるものがない・・・・から そういう人たちよりも まだまだ貧乏なのである。

 当然、事業として うちのような店にお金を貸すところはない。  生活していくために開けている店なのだ。

訪問してくれた人たちはよくわかると思うけれど 「これと言って押さえるものはない」店頭である。

これは意図的にそうしているわけではない。   自分の使う 例えば歯磨きや石鹸を 数個置いて

基本的に自分が使う。  使っていて心地よいものなので 人が来ると「これは良いんだよ」と言ってしまう。

すると 「あなたが使うものならきっとそうね」と共感してくれたひとが買うことになる。私は・・・・・

売れると現金になるが 売れると自分の使うものがなくなったりするので 売れても売れなくてもいい。

という暮らしをずっとしてきた。   有機スイトピーの種を昨秋植えた。  見る見る伸びて 今花を咲かせて

いる。3つ 大きなプランターがあったけれど 一つは 保育士の親友が三月末に買っていった。

 数日前、 サポートセンターのボスが気にいって分けてほしいというので 一つ手放した。 残りは

私のスイートピーであるから もう誰にも譲れない。  手塩にかけて育てたので 爽やかな香りと愛らしい色が

なんとも愛しくて 離れがたい。   貧乏でも そういう暮らしができるなら「自分もしてみようかしら」

という人が いるけれど 私は 正直 これは勧めずらい。  意外に大変なのである。  まず、 延々と世の中

から目をそらすわけにはいかない。  ひと月に 半分以上は 現実に迫られその度 身体も心も頭も壊す。

低い所得でも 税金やなやかやは 人並みにかかる。 その上 返済もある。 気を許したら 世の中の

激流にあっというまに流され激流に飲まれるのである。    次に 物事のハードルを低く越えるしかないので

常に交渉ごとや 小さな諍いやトラブルや誤解が多い。   一つ解決すると 明日には問題が五つ増えている。

 次に、 常に「何か足りない」状態に慣れること。  米がない。コーヒーがない。 いつもたいていの家庭にある

ものが切れたら諦める。 という暮らしに慣れる。 それと 大切なことは 身体と心の健康について。

身を守る術を無料で受けることを 感謝して 続けることが大切なのだ。  買い物をしてる人、道端でしゃべる人

それぞれどんな暮らしをしてるかなんて見ただけではわからない。  私は買い物をしていても道を歩いていても

父母に桜を見せてあげていても ある方向からは 「普通に生きてる」といつも怒りを向けられている。

 それが 今一番の不幸である。       かろうじて生きるための 店 貧乏はいいけれど 貧乏臭いのは

嫌だという イギリス的な生き方も 私に味方をしてくれたと思う。  お金は必要だし この生き方を人に

勧めることはできない。  それくらい 大変な道であることは確かである。   

うちの洗濯機は今も壊れたままだ。 三年以上四年未満かも・・・・・

テレビは アナログに 無償チューナーを申し込んだ テレビが家に一台ある。 

昨年~家電製品がほとんど壊れ、この冬 「少しは自分たちを守らねば」とヒーターを

ひとつ買った。  最低の暮らしの基準は?といえば 多分 最低基準以下ではないかと思う。

この時代、低所得世帯は多いけれど、私達のそれは フランチャイズ時代 からずっとである。

お金のない 店を 訴訟しても 得にならない。 これは開き直りではない。 分かっていて訴訟するのは

単なる虐めやないか?        とにかく この春 離れて暮らす息子が お金を貯めてテレビを

買ってくれるらしい。   飛び上がるほど 嬉しいのは 言うまでもない。    息子も返済に追われている。

奨学金も返さねばならず 自分で精一杯のはず。    気持ちだけで終わっても嬉しい限りだ。

 でも もう少しいいよ。  小さなテレビでも 買ってもらったら また 誰かが腹を立てる。

ご飯を食べてもお風呂に入っても、 腹を立ててる人がいる。  話をしようとしても腹を立てている。

多分 道を歩いていても怒っている。  お金があろうがなかろうが 道は歩くし ご飯も少しは食べる。

「悪いことはしていない」とたかをくくるならば、悪くない人は裁判などしなくても解決できるはずだ。

  また飛散な事故が起こった。  事故を起こした会社は「法的基準はおかしていない」という。

これは「悪いことをしていない」というのと同じで被害者側を逆なでしてしまうだろう。

法的基準に問題がないことと、 実際起こった事故の悲惨な責任とは違う。  解決は法の舞台では

幕を閉じないだろう。   運転の交代ができる安心感が 落ち着いた業務につながると思わないのだろうか。

「世の中厳しいから」「こんな時代だから」と下に向かって吹聴する人に限って甘い汁を吸っている人は多い。