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 痛手を負った身体と精神世界から生きるしくみを 作りなおしています。  人と人がフェアトレード できる社会、幸福感を作ります。
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身体を休める・・・・・といっても 数時間~半日で 仕事を休んだりするわけではない。

でも つれあいの腰痛みが もう遥か昔に限界を越えており 毎朝 這いずり起きていたので

少しお金使っても 治療を勧めていたんだけど 二人とも病院には頼れない生き方だったこと

なかなか 自分の身体を人に任せられないようになっていたこと などで 先延ばしになっていた。


先週、 道を訪ねてこられた 月ヶ瀬村のふじたさんが よく勉強した整体師で 見てくれることに

なり、月ヶ瀬村へ 出かけた。  名阪国道 は もうほとんど通ることはないけれど 久々に通ると

 子供たちが小さいころ よく出かけた思い出がよぎる。  ふじたさんは 三月に霧島から

月ヶ瀬に越してきたご夫婦で 牧師さんの息子さんだ。  昔は音楽プロデューサーやシンガーの

マネージャーをしていたようで 音楽にも詳しい。  つれあいは やっと 腰の治療をゆっくりしてもらい

いくらか楽になったようだった。    私は 経済的な理由と((#^.^#)) 人に任されない厄介な人間

なので 今回は遠慮させてもらった。(*´∀`*)  すると ふじたさんのほうから「ちょっとだけ見ましょう」と

言っていただいたので ちょっとだけ お世話になることにしたのだけど「手こずるだろうなあ」と思ったら

案の定 えらい手こずらせてしまい 一番痛い右腕の上腕に かなりの苦労をさせてしまった(T_T)/~~

 真砂秀明さんの インディアンフルートがずっと流れ、 老犬のニッキ(日記とかく)が 風の通り道を

探しては横たわっていた。  私の衣類の匂いを嗅ぎながら「おばちゃんは犬を飼ってないの」といった。

温かいご夫妻で とても感謝です。    心と身体は 4分~5分の治り具合でした。  終わった時は

6分の治癒感だったのですが 今日朝は 身体のほうが「何してん?」と文句を言い出し 元の身体に戻ろう

としました。 反動で頭痛とめまいが して 身体が萎縮する方へ向かいました。 ねんのためですが

これは治癒が間違っていたのではなく 本来の私の身体が 何年も萎縮して 筋肉も神経も ぼろぼろに

やられており 治癒をすると 急には治らず 身体がもとの 萎縮状態に戻ろうと 反発するのでした。

 それほど 傷んでいたということで 一度や二度では治らないようです。  また 整体ではない病気も

あるから それは 違う方法で自分で治癒をするしかありません。  でも ふじたさん(=^0^=)ありがとう。

 つれあいの腰も もう少しかかるようでした。   月ヶ瀬村は今も土葬の弔いの土地だそうで、私には

合っている気がします。  ふじたさんは整体や生き方を通して牧師の息子さんらしく布教をしているんだと

いうことですね(-^〇^-)    また 伺うことにします。  とにかく 手こずる患者でごめんなさい。


                                  *  ブログ 引用しないでね

  
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疲れはて 万策尽きた夜、一睡もせず 蒸し暑い夜の中へ出てみた。

上弦の月が雲の中に隠れていて ほとんど 雲間のこぼれ光となっていた。

朝一番に 頭を冷やす声を聞くために 宇野さんに電話する。 早朝の長い時間、快く

お話を下さる。  やはり 一味違う 捉え方と考え方です。  基本的に似た考えだけど

できるだけポジティブな私に対して彼女は 建設的という言葉があう。 アバウトではなく

形として 実行する強さがある。 幸福というものに 柔らかなイメージではなく ひとつの

器、囲い、立体という 作り上げ方である。  やはり 廃屋から 一軒の家を作り上げた人だけある。

自然の摂理に沿う私の解決に対して 彼女は叡智という 崇高な助言をくれようとする。

70歳になるとは思えない シャープさも持っている。  法律や裁判所に対する怒りも 清々しい。

私よりも 明白な 怒りの 表現です。   私は自分の考えが悪くないとは思ってきた。

でも 一本の柱に 釘をうつ 彼女の建設的な 前向きさは 私には少し眩しく まだまだ真似のできない

生き方なのだ。 その釘を 何センチおきに打つのか 右脳で計算するのだ。  打ち付けた一枚の板が

次の垂直な柱の礎となることは きちんと計算ができている。  感情を 土台にしたり 柱にできる

力を持っているのです。  「どこまで踏みつけるのか」と怒りの帆を常に立てよと宇野さんはいう。

どこまでで 良しとするのかは 心のマナーである。  ご飯を食べているのを見ても お風呂に入って

いるのを見ても腹が立つ・・・・・というのは 法律の問題ではなく むしろ 心の問題だと思う。

 人の行動で良からぬ 妄想をして思い込むのも同じだと思う。 そんな 捩れた感情が 法廷の

片隅で 動いていたとしたら 涸渇の法だと思う。  傷みは常に 滲む血の後を 隠さず残し、伝えなければ

と思う。  「傷みながら笑っている」ことが 理解できない人たちもいる。 心の傷など 誰彼なしに

見せられはしない。  怒りと涙の帆を常に立てておくことである。


    * ブログ 書き写さないでね。  コピーもやめてね。



羽の折れた鳥を見るのは辛いだろう。

血だらけの足を引きずる姿も辛いだろう。

あちこちに 怪我をしまくりながら 走り続ける姿は痛々しいに違いない。

だけど 最後まで走り続けることにした。 走るといっても

ほとんど歩いている。 もう歩幅も 小さいし 太陽の日差しも痛いし 強い雨風は

さすがに 軒下に・・・・・だからこそ 爽やかな風を。  だからこそ 虹を。 だからこそ・・・・

失うことを 恐れる人々は今も 騒ぎ続ける。 無くしたくない人々は 小さな傷にわめいている。

ずっと ずっと そうしていればいい! 我が身勝手にわめいていればいい! 私に助言をくれた

先人は言った。  「燕雀(えんじゃく)何処んぞ   大鳥の羽ばたきを知る」 と。

 意味は ツバメや雀は 巷で 常に群れて しゃべっている。 その間に大鳥はいつの間にか

大きく羽ばたいて 飛び立っていく。  燕雀にはならず そんな人らはほっといて大きく飛び立ち

なさい・・・・・と。   最後まで走り続ける。  その姿を誰か見ている。見ていなくても構わない。

身体を引きずりながら 走り続ける。  真似をしろとはとても言えない。だけどね 簡単にへこたれるな。

人生なんて逃げてもおんなじ。 巡って また 何かくるのだ。  その時に気づくんだ。

  「あ~一度逃げたから」 今のうちに耳を澄ますんだ。 立ち止まって生き方を考え治すんだ。

欧州の格言にある。 「ゆっくり行く者が 遠くまで行く」 と新聞にあった。  ばかなことに先手を打たず

正確に物事を見直すんだ。  私の 定説 「ゆっくり行くものが 真実を見ている。」 考えて選ぶんだ。

傷だらけでも 最後まで歩むんだ。 まだ みんな間に合う・・・・・。

  * ブログ 引用しないでね!  

 そのとき気づいたのは 人は 知らない番号が羅列すれば もう思い込みで

絶望視することが多いということです。 それが弱みになってる場合はとくにそうだと思います。

でも、頭を冷やして 連絡し直してみると案外、携帯会社のコマーシャルや営業だったり

インターネットの何かだったりするもんです。  でも いろんな事件の深みに落ちると 

絶望的観測をしてしまう。これが 何の苦もない日常を送る人にはわからないらしい。

 夫婦の場合はやはり どこかでどちらか一人が 冷めた頭で関わることが大事だと思う。

借金にはついてまわるもう一つの大事なことがあります。 それは 人間不審です。

人に騙されたとか 嵌められたとかいうときは当然なのですが ちょっとしたことで

普通に笑っている人や通りすがりの人でさえ 疑う目になることもある。 そのスパイラルに

はまらないことが大切なんですが  なかなか そうはいきません。  社会や人前で

明るく振舞えば振舞うほど その闇は深いのです。だから 周囲で わざわざ大声で話したり

これみよがしに 活発な声で話す人ほど 私には 悲しげに見えます。 お店にいると

飛び込みで営業する どこかの会社の奥様らしきが 通り一遍 明るく元気に売り込む姿に

時々出会います。  なにやら うら悲しい心地がして 知り合いに尋ねるとご主人の会社が

非常に危ないとかいう噂。 ひと事ではないけれど そういう感性は常に 敏感に動きます。

 以前読んだ 加藤諦三さんの言葉で 「その出来事が大変なのではなく 大変だと思う気持ちが

大変なのだ」 と・・・・・私は 常に何かよくないことが 起こるたびに 何どもそう言い聞かせてきました。

そして 起こることは 無常・・・・この世の出来事は常に動いている。  全部が この世のレッスンだと

生きていこうと言い聞かせてきました。  それでも ひとつひとつは やはり大変で 「レッスン」だと

割り切るまでは 時間もかかります。  そして どうしても何度でも うまくいかない時はやはり、根本的に

違っていることがあるはずだと思いました。  私の場合は 木村秋則さんのりんごの奇跡から

今、自分に足りなくて どうすることもできないのは 心とか自分のエリア、ポジションに 何が必要なのか

と深く考えてみました。  すると それは 木村さんの畑に足りなかった 雑草を植えること。 一見

排除して寄せ付けなくしているものが 今 一番 向き合う必要のあることなんだ・・・・と 気づきます。

つまり 私にとっての 悪しきもの・・・・といえば 誤解があるけれど 自分の苦手な人や 生理的に受け付けな

い人、 極端にいえばライバルや敵のような存在。  それらは 実は 自分の畑に必要なものでは

ないか・・・・・この先 顔も見たくない存在でも 自分のレッスンには 避けられないのではないか。

ハードルが低くていいから これらと向き合う 自分の畑に わざわざ植えてみる 必要があるんじゃない

かと考えました。 そう思うと 除外してきたことで未解決な出来事が 自分の出発点だと気がつきました。

 折しも、 地方で ローカル誌を編集されている 0さんからの以来で 記事を書くことになりました。

テーマは食に関してですが 自分の体験に沿って書けば どうしてもここ四年五年の出来事は

避けられません。    そして 一連の事件とは やはり向き合って解決しようと心に決めました。


    *  ブログの転写や引用はお断りいたします。

 そのとき気づいたのは 人は 知らない番号が羅列すれば もう思い込みで

絶望視することが多いということです。 それが弱みになってる場合はとくにそうだと思います。

でも、頭を冷やして 連絡し直してみると案外、携帯会社のコマーシャルや営業だったり

インターネットの何かだったりするもんです。  でも いろんな事件の深みに落ちると 

絶望的観測をしてしまう。これが 何の苦もない日常を送る人にはわからないらしい。

 夫婦の場合はやはり どこかでどちらか一人が 冷めた頭で関わることが大事だと思う。

借金にはついてまわるもう一つの大事なことがあります。 それは 人間不審です。

人に騙されたとか 嵌められたとかいうときは当然なのですが ちょっとしたことで

普通に笑っている人や通りすがりの人でさえ 疑う目になることもある。 そのスパイラルに

はまらないことが大切なんですが  なかなか そうはいきません。  社会や人前で

明るく振舞えば振舞うほど その闇は深いのです。だから 周囲で わざわざ大声で話したり

これみよがしに 活発な声で話す人ほど 私には 悲しげに見えます。 お店にいると

飛び込みで営業する どこかの会社の奥様らしきが 通り一遍 明るく元気に売り込む姿に

時々出会います。  なにやら うら悲しい心地がして 知り合いに尋ねるとご主人の会社が

非常に危ないとかいう噂。 ひと事ではないけれど そういう感性は常に 敏感に動きます。

 以前読んだ 加藤諦三さんの言葉で 「その出来事が大変なのではなく 大変だと思う気持ちが

大変なのだ」 と・・・・・私は 常に何かよくないことが 起こるたびに 何どもそう言い聞かせてきました。

そして 起こることは 無常・・・・この世の出来事は常に動いている。  全部が この世のレッスンだと

生きていこうと言い聞かせてきました。  それでも ひとつひとつは やはり大変で 「レッスン」だと

割り切るまでは 時間もかかります。  そして どうしても何度でも うまくいかない時はやはり、根本的に

違っていることがあるはずだと思いました。  私の場合は 木村秋則さんのりんごの奇跡から

今、自分に足りなくて どうすることもできないのは 心とか自分のエリア、ポジションに 何が必要なのか

と深く考えてみました。  すると それは 木村さんの畑に足りなかった 雑草を植えること。 一見

排除して寄せ付けなくしているものが 今 一番 向き合う必要のあることなんだ・・・・と 気づきます。

つまり 私にとっての 悪しきもの・・・・といえば 誤解があるけれど 自分の苦手な人や 生理的に受け付けな

い人、 極端にいえばライバルや敵のような存在。  それらは 実は 自分の畑に必要なものでは

ないか・・・・・この先 顔も見たくない存在でも 自分のレッスンには 避けられないのではないか。

ハードルが低くていいから これらと向き合う 自分の畑に わざわざ植えてみる 必要があるんじゃない

かと考えました。 そう思うと 除外してきたことで未解決な出来事が 自分の出発点だと気がつきました。

 折しも、 地方で ローカル誌を編集されている 0さんからの以来で 記事を書くことになりました。

テーマは食に関してですが 自分の体験に沿って書けば どうしてもここ四年五年の出来事は

避けられません。    そして 一連の事件とは やはり向き合って解決しようと心に決めました。


    *  ブログの転写や引用はお断りいたします。