忍者ブログ
 痛手を負った身体と精神世界から生きるしくみを 作りなおしています。  人と人がフェアトレード できる社会、幸福感を作ります。
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


 あれは確か判決の前日の帰り道だったと思います。

自宅まであと五分という大和中央道の交差点。  左折するため赤信号で止まっていたら、

右側車線を後ろからきた乗用車が赤信号を突っ切っていきました。「え?行くの?」と思ったら

前方の対向車線から右折してきたワゴン車。 「ぶつかるよ・・・・うまく交わして・・・・」と思ったけれど

二つの車は事故を起こし・・・・前方のワゴン車は側面を当てられ、宙を舞いました。 「え?」

次の瞬間、はもうスローモーションでした。 舞い上がったワゴン車は交差点の対抗道路に運転席を下に

落下。  もう一台はスピンして前がぺしゃんこに。   そして何故か静寂で沈みかえりました。え・・・・?

「何とかしなくちゃ・・・・・」周囲には自分の車だけ。  手足は震えがとまりません。  どうにか、信号が青に

なるのを待って、左折。   胸のどきどきと震えで降りられません。   セルフのガソリンスタンドに止めて

何とか降りたときには、人が集まり始めていました。   あの宙を舞って落ちた車のドライバーはどうなった

のか・・・・だんだん、人が集まり、救急車は二台と消防車。  声をかけたりしています。  とにかく

私がいなくても沢山人がきたので、帰ろうとしましたが、身体が震えて動けません。  自宅に電話をかけ、

いきさつを話し、自分が落ち着くのを待ちました。  大きな事故でした。    見たこともない状況でした。

しかも恐らく第一発見者は私、事故の一部始終を見たのも私。    とにかく、自分の前に落下した

車を見て自分の身は無事だったことを感謝しました。  あれだけ高くダイブして、自分の車に落ちていても

不思議ではないからです。   自分も色々大変で、人のことどころではなかったのです。すぐに自分の

現実に戻さなければ、なりませんでした。   数日後、よくあるたて看板が立てられました。  事故の目撃

情報を求める警察の看板でした。   気になりましたが、自分たちのことが大変でしばらく置いていました。

一ヶ月くらいして、まだ看板が立てられていたので、私は自分の中の気になることを、取り合えず消し去るため

に警察に連絡して、目撃した様子を伝えました。    気にはなっていたので、落下した車のドライバーの

生存を確かめると、大きな事故だったのにも関わらず無事だったようです。 言い分が食い違って揉めている

そうでした。   その後、看板は取り外され、警察から円満解決の連絡が入りました。  人騒がせです・・・・

自分は違反していなくても、巻き込まれてしまうし、見てみぬふりできないから宿命的なんでしょうか?

  なぜこんなことに・・・・と思うことに出会ってしまいます。   もう少しゆとりのある人が出会えばいいものを

。  自分さえ生きていくのが精一杯の人間が出くわすのです。(笑)  

ここしばらく、自分らの「正念場」だと思うことが多いです。   本当にそうなんでしょう。  だから色々なもの

が壊れる・・・・パソコンも修理が出来上がったものの、費用の調達がまだ(笑)  心荒れる日もあります。

父母もいよいよ、老いてきて介護も近くなってきました。    あれから三年。   何とか、いい報告をして

安心させたいけれど、なかなか気持ちの平安はやってきません。 資金繰りの悩みも絶えず・・・・

 あ・・・・心配をまたかけてしまうのでこれぐらいに(笑)      先日から、寒いくらいの秋の到来です。

猛暑の疲れが出始めるころ・・・・・身体にはお互いきをつけましょう。   そうです。まだ良くなってないこと

自覚しないと。    過信してはいけませんね・・・・・・・・   

PR


先週から一週間、とてつもない忙しさでした。 「大和野菜を伝承するプロジェクト」に片手の指を突っ込んでいて、その研究会に呼ばれていました。   夢りんごのランチを食べてくれるというので、地場野菜と農園のつながりを基本にベジタブルなランチをコーディネイト。  運ぶことに・・・・・ところが祝日は、奈良のメインストリートが「通行規制」で車両禁止。  しかたなく、駅の駐車場から二人でてくてく歩いて調達しました。

 奈良は観光客でいっぱい。 連休です。  作って届けるだけでも大変だったのに、プロジェクトに参加したら

ど真ん中の席が用意されていて、お話しをすることに。  汗だくでぼろぼろの講師・・・・らしい。

絶対、いねえってこんな人間(笑)    普通はスラッとスーツ姿でしょ・・・・・ 何せエプロンはずしただけの

くたくたのおばさん。 汗まみれでほとんどのノーメイク。  見れたものじゃありません。

 二時間くらい経過して、何とか人を巻き込みながら、農園と商業のお話しをキャッチボールして終了。

何が始まるか解からなかったので原稿も何もなし。   それでもやはり、ささやかな「講師料」をいただけたの

はありがたいので、すぐに返済に使いました。  でも・・・・やはり変な奴でしょう(笑)  

半ば、新喜劇の舞台のようなおばさん。   りんごを県内に運んだり、昼ごはんを運んだり、 引き売りしたり

ぼろぼろで決して「元気」とはいえない、死にかけのおばさん。 人からどう見えるなんて気にもしてられない

大和の万葉おばさん。   嫌じゃあ!   ・・・・・  すらっとした、凛とした人になりて~^^

 想像もしてなかったぜ・・・・・こんな人生のピーク。   帰ったら放心状態で、エネルギー消耗でした。

ところで、郵便不正事件が無罪、不起訴となりました。  この村木さんという人が捕まったとき「この人無罪や」

とすぐに家族に言いました。  知らない人ですが「濡れ衣」の匂いがしました。   この人のコメントで

検察の誘導尋問のような流れに「もしかしたら、そうかも」というのが一番怖かったとありました。

  私たちも「もしかしたら・・・・」と何度も思いました。 実際田舎の加盟店などは「おかしい」と抗議しても

本部から「お宅だけですよ。そんなこというのは」と言われると「そうかも、うちだけができないのかも。」つまり

自分たちが悪いのかも・・・・と思うんだと聞きました。  こんな信念を貫くような局長でさえ「もしかしたら捺印し

たのかも」と思うようです。  正直な人間ほどそうなのでしょう。   いつも自分を取り戻し「いいえ」と言い切る

勇気、言い続ける力が必要なのです。  やってもいないのによく「一度は自白」とあるのはそういうことでしょう

。「落とす」ことが必要だったのでしょう。検察は。    怖いことです。  ほんまに怖いことです。

怖い国です。   しかし、自分の弱さも思い知らねばなりません。  お人よしで、みんなに好かれている

それだけではいけなかった、「嵌められる人格」をもっていたことは事実なのです。

 おかしい・・・・と思ったら「ノー」という、      ストップをかける・・・・・そんな癖がついてしまいました。


 夢りんごが広めている、ネパールの紅茶を運んでくるウッダムさんは三十代の青年で

教育に乏しいネパールの学校の校長先生も勤めています。   彼が来日して奈良での紅茶プロジェクトの

集まりに参加するため、お店に寄ってお昼ご飯を食べてくれました。 吉野からの引率してきたのは

先日お世話になった、和食の研究会の樋口さん。   想像していたのとは違ってウッダムさんは

日本語がぺらぺらの行動派の青年でした。   根強い男尊女卑が存在し、女子は結婚して家庭に入るので

教育は不必要というような、昔の日本の風潮のようなところだとも聞きました。   経済成長が著しく進み

カトマンズでは高層ビルも増え、マンションの売れ行きも上昇しているのだそうです。

 降りたことのないネパールの世界の屋根の麓、カトマンズの描いていた風景が予想とは違うようです。

途上国というイメージから、固定観念にとらわれていた私だと始めて気づきました。   

知らず知らずに、うぬぼれていたように感じとても恥ずかしい思いもしました。   支援というような身分では

なく、むしろ「支援されるがわ」に近い自分ですが、それでもいくつかこういう関わりをもっているのは、

「支援することで支援されている」と思い続けていたことでした。  そして、何とか今日まで生きてきたと。

フェアトレードは対等な取引・・・・・そこには、途上国から来た人の「胸をはった強い姿勢」がありました。

このプロジェクトはまだ、フェアトレードは浸透していませんが、このウッダムさんの姿勢に、いい意味で

期待を裏切られた人も少なからずいたのではないかと思います。  何しろ「支援」されている低姿勢では

ないのです。  少なからず、似た自分を感じ この姿勢で闘おうと思いました。   友達に聞いたインドの

話しではカースト制が厳しいのは当然ですが「富めるものが、貧困を助ける」のも当然だとも。

 ネパールのファミリースクールが発足10年。  この架け橋となるウッダム青年が日本語が話せたこと、

日本語で手紙も書けたこと。 これが継続できた一因だと代表者はいいます。    京終にある、

公民館を紹介できたのも、このご縁から。   たくましい青年校長にネパールという国を改めて見直す

ことができました。  心身を壊したおかげで、障害のある施設ともつながり、障害のある出会いも受け入れ、

失敗というハンディも抱えながらも、「対等」でいようとする。 自分たちと、ネパールの貧困、障害のある人たち

これらが、線でまっすぐにつながっています。  背筋を伸ばして「生きる権利」を伝えていこうと思いました。

 あきらめないで・・・・・     ウッダムさんはネパールの国民の一人です。 だから、すべてがこの青年の

ようにたくましく、希望を持って生きているとはいえない国でしょう。  でも、ひとつの国の象徴のような

出会いでした。   ヒマラヤの麓のサピング村に、ネパールの希望が光っていました。


 田舎の公民館の窓から、小さな保育園が見えた。 8人くらいの年少さんのピンクの帽子が

横一列に並んで、運動会の練習らしかった。  小さな保育園で、ほっとする風景でした。

ここで私は何をしてるのかというと、つながった人たちと、もう少し深く関わりながら、フェアトレードを伝えたり

オーガニックな物の情報交換をしたり、都会ー田舎 を仲良くする仕事をしているのです。

その結果、食の注文を受けることもあるし、こちらが分けてもらうこともある。 フェアトレードを知りたいという人

にはその資料を届けたり、着ているものの素材や染めや刺繍について話したりするんです。  

ポイントは自分がしていることと相手との接点を探す。  都会には田舎のものを伝え田舎には都会のもの

を伝える。   別の場所でであった人と再会することもあります。  根っこには、自分が体験した痛手から

フェアトレードに基づいた生き方の伝授があります。  傷だらけになった心や身体を自分たちで癒しながら

生きていくには、そんなにたくさんの選択肢はありません。  人生を丸ごと受け止めて、傷口を治癒しながら

それでも前に向かうには、速度を落とし、こんな風に自分ビジネスを実践するしか選択肢はないと思います。

 離れゆく人には手を振り、残った関係を大事に向き合う。  その残った関係のひとつが県南にありました。

さて・・・・ここで、また傷口のお話し。  「優越的地位」についてお話をしたいと思います。

フェアトレードで向き合っていく心がけで生きているのですが、この「優越的地位」については最近、少し考えが

変わりました。 というか、見直しました。  ある、弁護士さんの資料によると、「優越的地位」というのが存在

することは確かであり、それ自体は否定できないと。   私もこれには同感だと思いました。

取引上の地位が優越していること自体は、商取引上通常に存するものであり優越自体が禁止の対象となるも

のではありません。 本来取引は当事者の自由で主体的判断によって行われるものであるところ、取引上の

地位が優越していることを利用して相手方を抑圧し対等な取引ではありえないような一方的に不利益な取引を

強要することが自由な競争基盤を阻害するものとされる。  とあります。  自己の取引上の地位が相手方

に優越しているということは、自己が相手方より相対的に優越していることで足りる。

  つまり、地位が高いということだけで、十分であるということです。 地位が高いからその地位を利用して

相手を抑圧したり、服従させたり、支配させてはいけないということだと私は思いました。 さて、自分たちは

どうでしょうか?  照合してほしいと思います。 買えないといっている商品を送り、納品書もなく数年あと

請求書(莫大な金額で)を送る。  事業自体がほとんど当事者の判断でできない。減らそうとすると

「高齢者が迷惑する」と許さない。 「払えるだけの仕入れ」を申し出ると打ち切る・・・・合意書とは名ばかり

で「自分に有利な書類をとり」加盟店に不利を承知で書かせる。 しかも近隣の親を持ち出し、断れない状況

をつくり、夜半過ぎ日付が変わるまで居座る。  これだけでも優越的地位乱用ではないのかな・・・・・

 そもそも、法的にされたのは先方であり、やむなく「法廷」に預けたのであるから、普段の暮らしは

地域を巻き込まないで済まされないものか。   なぜ、実家に向かって猛暑の中、窓を開け放ち

大声で電話をして、泥棒呼ばわりのまくし立てをされるのか・・・・父は、たまりかねて立ち上がり、老体に

鞭打って「もう少し小さな声で電話できないか」と言ったところ、「声の大きいのは地声じゃ!」

「誰にもの抜かしてんのじゃ!老いぼれ!」という罵声、暴言・・・・  父はただの「老いぼれ」ですが

あなたは、高齢者配食の会社の取締役、役員なのではないのですか・・・・母が倒れかけてます。

くれぐれも自粛ください。  よろしく御願いします。    お見苦しい記事でごめんなさい。

 こんなことになるのがわかっていたので(矛先が老父母になると) ずっと我慢していたのです。

父母に危害がくるのがわかっていたので、この人たちのいうことを聞いてきたのです。


    平安な暮らしが少しでも戻るように、祈ります。

正当な、判断がひとつでも社会に実るように祈ります。 買い入れを減らしたいと申し入れたときの

NO!という社長との話し合いのビデオが会社にあるはずでしょう。  もう一度、見直されたらどうですか・・・・

 あなたがご旅行で、同席されなかったときの2007、7、30のビデオですよ。 


すみません。 閲覧のみなさん、 復活早々、またこれで(笑)     

やっと秋めいてきましたね。   日暮れは猛暑に関わらず早くなりました。 秋の長雨の匂いもします。

体調、気をつけましょう。   今年の猛暑から、ふと、気が緩みますね・・・・・・     


高取から吉野に抜ける往路の芦原トンネルに入った瞬間、その暗さに肝を冷やしました。

昔から、心霊スポットで名高いトンネルだったのですが、もう二十年くらい、この方面には縁がなく

新しい道がたくさんできている中で、ここだけはまだ昔のトンネルだったことが意外でした。

 もっとも、帰路の同じトンネルは新しくなっていて、明るいナトリウム灯が照らしていましたが。

吉野地方に出向くのは、お世話になっているネパールの学校支援に携わる仲間の縁で

「和食研究会」というのがもう10年くらいも地道におこなわれているのに参加するためでした。

  食材や野菜は地元で収穫されたものを、持ち寄り、メニューを組み立てて調理と実食。

今回のメニューは、  梅粥、冬瓜と鶏の汁、茄子とごぼうの柳川風、ピーナッツのブラマンジェ

 出頭のトラブルと体調不良ですっかり遅れてしまい、調理は始まっていました。

玄米菜食を続けて広めている樋口さんの優しい梅粥は三分つき米ときびがとても美味しいでした。

材料費だけで続けておられて、地元の人も年配から若いお母さんまで。  イベントやミーティングで少し

会っただけの人たちでしたが、話してみると、付き合いのある農園さんやナチュラルコスメとつながっていて

不思議なご縁でした。   県南は生まれ育った懐かしい原風景のなかにありました。

少し迷って、コンビ二でUターンしようとしたところ、見覚えのある川原がすぐ隣に。

「あ、ここ、来たことある。」一人でつぶやきました。  30数年前に確か、友達5人で自転車で冒険して遠出

してきた、お昼を食べた川原でした。   その数日前、吹奏楽部だった私たちの部室に泥棒が入り、

親友がそれを目撃したけれど怖くて何も言えず、 おめおめと私のフルートや仲間のトランペットが盗まれて

新聞社の取材は来るは、心は傷つくは、親友は自分を責めるは、仲間は壊れかけるはと大騒動だったのでし

た。   その仲間が休日、じっとしていられずに、癒しと冒険と犯人探しの旅にでたのでした。

 当時、自転車といってもスポーツサイクルではなく、山道は当然諦めて引っ張り、私はついていくのが

精一杯。  たどり着いた吉野川のほとりで、やっとお弁当を食べました。  女子2人と男子3人。

とてつもない、自転車の旅は、あとにも先にも一度だけ。    青春の かけがえのない思い出となりました。


その川原が、偶然目の前に・・・・・・  あのときの仲間はどうしているんでしょう・・・・・

オカマちゃん、みっちゃん、丸さん、功・・・・・・もう、おっさんおばさんだね・・・・・・・

                                                     (続)