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 痛手を負った身体と精神世界から生きるしくみを 作りなおしています。  人と人がフェアトレード できる社会、幸福感を作ります。
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1月のお正月明けにふらリと現れた、カナダからのお客様・・・・・結局彼女は4月、そう今日まで滞在していて
夢りんごに何度か立ち寄り、すっかり友達になってしまいました。

 奈良でゲストハウスでスタッフをしながら、三ヶ月。   お別れに、少し話そうということになり

「ベンチでいいじゃないですか?」  「いいよ・・・・でもベンチの心当たりどこかある?」ということで

目の前の京終無人駅の構内にある、電車待ちのベンチでしばらく、風に吹かれて、少ない電車を見送り見送り
話しました。   ここなら、うちの庭同然だし・・・・急にお客様がきても、手にとどく近さ。

  イーグルスのディスペラードの歌で始まった私達でした。  バンクーバーではオリンピックなのに
背を向けて、日本に、それも脈絡もない奈良にふらり・・・・して見たいよなあ・・・・と思っていたら、意外に
普通の事情がありました。    バンクーバー島の森に住み、園芸家で生きてきた彼女も普通の心配事があったんだよね。        別れるのはつらか~・・・・でも、終の住みかは奈良にしたいようで。

 また会えると約束してお別れしました。   最後に夢りんごのお手伝いを少ししてくれて、夢りんごランチをご馳走しました。   彼女が置いていった一枚の絵。   大和郡山在住の画家の「月と電柱」という魅力的な絵を残して・・・・・その日のBGMはイーグルス。   彼女が寒い冬の日に現れた時「何て曲でしたっけ?」で始まったつながり。   無機質で静かな顔立ち。   おもむろな会話。  感受性を小出しにする品のよさ。

でも、握手した手は、ごつごつと荒れていた。   土をさわるからなのか? ゲストハウスで水をさわりすぎたのか?    カナダからのイメージとは少し離れた赤くて太い手、荒れた爪。  どんな苦労があったのか?

「元気でいなければ会えない距離」、しばらくしたら、エアメールを書こう。  カナダ、バンクーバー島の森

太平洋を横切った、はるかな大陸。     まだ見たこともない国に住む人。

無人駅は初夏。   つまらない景色とホームの時計。   二両で往来する前しかドアの開かないローカル電車。     つい最近、名前がついた  「万葉まほろば線」   無人駅のベンチにて


  
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  人に騙される、とくに事業では、古今東西ちまたに溢れた出来事でしょう。そのために破産や倒産、
心身症や自殺・・・・・追い込まれることも珍しいことではありません。   今も昔もそういうことは、いちいちとやかくいっても、仕方のないこと。    という意見が多いはず。

 私達の場合、「騙されたうえに、加害者にされた」という現実が、数年間心と身体を痛めつけてきました。

こういう、真面目なタイプが、「餌食」になるんですね。    このまま死ねば先方からみれば実は「好都合」なんだと思います。    

「濡れ衣をまずはらす」    心の平安を取り戻すためには必要だと思いました。

 どちらが悪いということより「騙されたほうにも責任がある」と思うのでここ二年半は貧困にも向き合い、その「騙された責任」を果たすことにも努めました。  しかし、それではますます相手の思う壺。

「そうですよ。騙されたほうが悪いんです」と、どんどんエスカレートしてきます。 「騙されたあなたのほうが悪いんです!」と呪文のように・・・・・だからこそ「死んではいけない」と呟いてきました。

 「ならば!騙したほうは、もっと悪いでしょ!」    と叫ぶことが大切です。  

「私達は逃げるつもりなどない」と叫ぶこと・・・・・・でもそれは、果てしなく大変な闘いでした。

日本の本流、経済の大きな流れはすべて、「強いもの有利」に動いているからです。  法はその最も最先端
「強いほうにホイッスルを鳴らす傾向はある」と弁護士さんからも聞きました。   世の中の流れ、ほとんどに逆らう形になり、何度も途方にくれて、白い闇につかまりました。   この「法と哲学」をタイトルにもってきたのは、京セラの創始者「稲盛和夫」さんの著書の一部に「商売は法ではなく哲学で・・・・」という一文があったからです。     昨今、私達の経験してきたような「嵌める事業」が横行しており、何でも「法的」に解決しようとして
いる傾向があるからです。    そして「法的にさせてもらいます」という方は、必ず自分側を「最初から法をすり抜ける対策」で保護しているといえます。     普通に生きてる庶民はみな、この「法的」という言葉に後づさります。   怖くなってじたばたします。  うつになり、不安障害になります。 身体も病んで命を縮めます。

こうして、弱い鹿は、仲間からもはずれ・・・・森をさまよい」ます。   こんな時にライオンにあえばひとたまりもありません。    こんな時に「搾取する」ライオンは、むしろ周囲に寄ってきます。   「弱る」ということは
ライオンにも怯え、そして笑っている仲間の鹿にも怯え、「力になるよ」と近寄る生き物にも「餌食」になるということです。     これは自殺よりも深い闇です。   名前を「無力」とつけておきます。     (続) 

  私にピンチのヒントを下さったエコロジーのプランナーは、かつて事業で大きな失敗をされた人でした。

それ以来、共通の「失敗は成功のもと」という合言葉を胸に、苦しい道のりを歩いてきました。

しかし、ここでいう事業の失敗とは「白黒」がはっきりしているもの。  この方の場合、品物を入れて逃げられたわけで、相手に騙されたということは一目瞭然といえます。   責任を負って、それでも少しずつ返済しておられます。    被害、加害という場合、被害事実がはっきりしていることが目安になります。

 ここからは、以前の私達の事業、本部との関係です。 数字の上で「買い掛け金」と名のつく数百万がこちらに残っています。

これが、本当に「買い掛け金」という名ならですが。   その数字がある限り、被害は先方になるということなのです。    しかし、  普通、買物は自分の意思でするもの。 単純に一万円のスーツを買うのに、手元に、
8000円しかなかったら、それは買えません。諦めるか、持ちがねに合う買物するか、交渉で分割にするか、
  事業の場合、借り入れしてでも買う場合がありますが、それを決めるのは買う方で、「やめる」選択肢があるのが普通です。   売るほうが「売上を増やさないと成功しないので無理して買え」というのも限度があります。      私達は今思えば「あろうことか」ですが、こうして先方のいうように増やしていきました。  しかも
年寄りの食事だったので「断れば」年寄りに迷惑がかかると許されません。    固まった何十人もの顧客を名簿ごと回されたこともあります。   事業というのは数を増やすことも大切ですが、何度も見直して、時には
「減」・・・・・引き算も必要です。もちろん、それは後からわかったことです。 払う見通しの立たない品を買うのは、止めたり減らしたりしなければなりませんが私達にはそれが許されませんでした。    数字は本部というところが把握しているのですが「減らす」選択肢は許されませんでした。    この、立ち上げた本部というのが、私の故郷の実家の目と鼻の先の知人でした。    それが事態を更にひどくしました。   初めての事業で素人でしたから「言うとおりにしてください。絶対大丈夫なので」という言葉を信じました。    生活はいっぱいいっぱいでした。   数年後、先方は、経理上具合が悪くなったのでしょうか。    突然、取立て側に変貌しました。  怖い書面を脅し状態で請求してきました。 今から考えたら、始めから
「取立て側」 だったのですが、「同じ道を一緒にがんばりましょう」という言葉、「同じ事業を一緒にできるなんて嬉しい」という単純な言葉、「全部、責任を持って導きます」という言葉。     親同士が親しくとくに、うちは老人で世話になる確率も高かったことから「親」という人質・・・・・を預けている気持ちもありました。     

 しかし・・・・すでに遅いのです。    途中、何度か「私達はもう買えませんけど、この事業は本当に大丈夫なんですか」と呼び出して問いましたが、「大丈夫です。  信用しないんですか。」「じゃあ、成功するのはわかっているので、バイクと冷凍庫をこちらから送ります。(成功するのはわかっているので)成功してから、無期限の支払いでいいです。いりません。」「え!?」・・・・・「そんなわけには・・・・・」「書面もなくてだめじゃないですか」・・・・・といっても相手は聞きませんでした。  親子ともども「うちは、中越地震にも寄付してるねん。ええとこあるやろ!」(災害の寄付をするほど、儲かっているので、バイクなども使ってくれと聞こえました。)そして、すぐさま、物は送られてきました。   戸惑いました。でも、事業自体が加速的でトラブルも多く、一年中、ねずみのように走りまわる事業でしたので、ゆっくり考える暇もなかったのです。     言うまでもないことですが
その後、請求書が送られてきました。  高い商品で本当の値段も定かではありません。 買う予定もなかったことです。

  もし、自分の意志で必要と思って買うならば、自分の事業に見合った額の中古品をできる範囲で買ったと思います。    不思議なことに「断っても聞かない」相手でした。    私はこれを優越的地位の乱用と思っています。    ここまでが第二回です。     この話しを信じてくださることが前提です。  

今ごろになって、例えば四年前の怖い出来事を直視することができるようになりました。

よく、「現実を見失わず」「現実をしっかり見据え」と言われます。  もちろん大切なことです。

しかし、この世は、予想もしない出来事が起こるようです。  予想もしないこととは、普通に生きていて出会う

「生老病死」に伴う「喜怒哀楽」  とは別のところにあるもので、主に仕事や人間関係から来る滑り台式の転落といえばいいでしょうか?    「え?」と固まるような信じがたい現実です。

 そんな場合、人はすぐに現実を受け止められません。     天命を全うした父の死でさえ、一連の弔いの
式事は記憶に新しく、確かにそこに列席していたにも関わらず、まだどこかで信じがたい・・・・・

 葬祭などは、あっという間に非日常の異次元へと巻き込まれる感じがあります。

事業や人間関係で「だまし討ち」のような体験もその類です。    昨日まで味方でいた人が突然攻め込む
というような場合です。   うつ病もそんな体験の後遺症と思われます。   あまりにひどい目にあった時
そして、どん底に落とされた時、人はむしろそれを直視してはいけない気が、最近はしています。

 直視していたら、ここ数年、命がいくつあっても足りないところでした。    「現実逃避」といえば批難されそうですが、 考えられない事態が起こったとき、人はそれを「受け止めてはいけない」部分もあると感じました。

 例えば「底」という実感は、本当の「底」にいる時はない。  少し抜け出て初めて「あれが底だったのかも」とわれに返るというようなことです。    本当の底を受け止めていたら、命がいくつあっても足りない。
 かといって、いつまでもほって置けないときがくる。   やはり時々は「現実」にめまいがしそうになる。
直視した時、生きていられない・・・・・震えが押し寄せる。   生身の身体で過酷すぎる現実を素手で受け止めてはいけない・・・・・と私は真面目に生きる人々に告げたい。     私は何が起きても、できるだけ足元を見てもくもくと歩きました。    そして時々、空を見上げました。  そよぐ風に吹かれました。  じっと耐えるのではなく、とにかく歩みました。   ときどき、どぼん!と落ちました。   白い闇の中の湖でした。  ずぶぬれでまた、歩きました。    そうしていると、だんだん何が起きたのか見えてきました。  騙されたことも解かりました。  律儀に騙されたほうの責任を果たしました。でも騙したほうはもっと責任があるはずです。

  この世は、法さえすり抜けたら「罪ではない」方向に進みすぎです。    このさき、五月にかけて

「法と哲学の旅人」と題して、この話しを適宜していくつもりです。    できたら、お付き合いお願いします。

                            夢りんご    

今ごろになって、例えば四年前の怖い出来事を直視することができるようになりました。

よく、「現実を見失わず」「現実をしっかり見据え」と言われます。  もちろん大切なことです。

しかし、この世は、予想もしない出来事が起こるようです。  予想もしないこととは、普通に生きていて出会う

「生老病死」に伴う「喜怒哀楽」  とは別のところにあるもので、主に仕事や人間関係から来る滑り台式の転落といえばいいでしょうか?    「え?」と固まるような信じがたい現実です。

 そんな場合、人はすぐに現実を受け止められません。     天命を全うした父の死でさえ、一連の弔いの
式事は記憶に新しく、確かにそこに列席していたにも関わらず、まだどこかで信じがたい・・・・・

 葬祭などは、あっという間に非日常の異次元へと巻き込まれる感じがあります。

事業や人間関係で「だまし討ち」のような体験もその類です。    昨日まで味方でいた人が突然攻め込む
というような場合です。   うつ病もそんな体験の後遺症と思われます。   あまりにひどい目にあった時
そして、どん底に落とされた時、人はむしろそれを直視してはいけない気が、最近はしています。

 直視していたら、ここ数年、命がいくつあっても足りないところでした。    「現実逃避」といえば批難されそうですが、 考えられない事態が起こったとき、人はそれを「受け止めてはいけない」部分もあると感じました。

 例えば「底」という実感は、本当の「底」にいる時はない。  少し抜け出て初めて「あれが底だったのかも」とわれに返るというようなことです。    本当の底を受け止めていたら、命がいくつあっても足りない。
 かといって、いつまでもほって置けないときがくる。   やはり時々は「現実」にめまいがしそうになる。
直視した時、生きていられない・・・・・震えが押し寄せる。   生身の身体で過酷すぎる現実を素手で受け止めてはいけない・・・・・と私は真面目に生きる人々に告げたい。     私は何が起きても、できるだけ足元を見てもくもくと歩きました。    そして時々、空を見上げました。  そよぐ風に吹かれました。  じっと耐えるのではなく、とにかく歩みました。   ときどき、どぼん!と落ちました。   白い闇の中の湖でした。  ずぶぬれでまた、歩きました。    そうしていると、だんだん何が起きたのか見えてきました。  騙されたことも解かりました。  律儀に騙されたほうの責任を果たしました。でも騙したほうはもっと責任があるはずです。

  この世は、法さえすり抜けたら「罪ではない」方向に進みすぎです。    このさき、五月にかけて

「法と哲学の旅人」と題して、この話しを適宜していくつもりです。    できたら、お付き合いお願いします。

                            夢りんご