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 痛手を負った身体と精神世界から生きるしくみを 作りなおしています。  人と人がフェアトレード できる社会、幸福感を作ります。
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実家に戻ることが多くなった。  京奈和自動車道路が実家の近くまで開通して

奈良と実家は急に便利になった.。 (こういうことも私には神様だと思える)

 まだ 訴訟には至らない時期のことである。 目とはなの先のお向かえ同士がやがて

裁判になってしまうのであるが、 母と 相手方は まだ 口をきく関係であった。

 出会い頭に「(あんたの娘夫婦は)訴訟しやるらしいな」と 母は尋ねられたようで 咄嗟に母は

「ん・・・・(このんは少なくともYESではない)。(内容はわからないが)あのこらに任せてる。」

という風に答えたそうだ。  (母は老婆で作りごとを話す元気はないから本当の話しである)

 時期はおそらく 本部に取引をやめさせられた9月の下旬だろう。 私は後に「かまをかけられたのでは」

と思ったが この 会話の最初の相手の一言はどこからきたのだろう。 「訴訟するらしい」など誰から

情報を得たのだろう。少なくとも 私達は 訴訟を選択肢の一部と思っていただけで「できればしたくない」

と思っていた。  廃業に追い込まれ 明日の保障もない人間が 勝つ見込みのない訴訟などしたい訳が

ない。 破産しか選択がないといわれたら「??????」 無限大のクエスチョンが溢れただけだ。

 この件には こちらからの「積極性」なくして 私達に二人の弁護士がついてくれた。(死ぬか生きるかの

時だから 単純に二人いてくれるのは心強いと感じたまでだ。) でも 相手はどうか?もしかして逆に

訴訟される恐れを強めたのではないか??  そして 何気ない日常会話が相手の確信となり、敵対された

のではないか?   私は どうもおかしいと思った。  裁判や訴訟は今まで経験がない。したい訳がない。

仮に「勝つ」と言われてもしたくない。 勝つのがわかっているなら 裁判はわざわざする必要ない。「卑怯」すぎる

からである。 翌年の一月末に相手からの訴状が届くまで 私達は一、二度弁護士と話しただけだった。

私達の経験のない者の裁判への階段は プロである主任弁護士によると次のような話しであった。

「裁判になるまでにはだいぶの時間がかかる。 相手方と何度か話し合いを持つ。それでどうにも解決が

できなくてやっと裁判になる。」   後に考えるとこれは 「調停」にあたると思われる。 当時、私達はやっと

生きていた。 店を閉める元気もお金もなかった。 選択肢は自殺、心中、夜逃げ、行き倒れ、・・・・・

破産する元気もお金もなかった。  借りたことのないカードで僅かなお金を借り(返せるあてがないので少ししか

借りなかった) 当面を生きていた。 どうなるかわからないけれど死ぬ元気もなかった。法テラスだけど

それもどうするのかわからない。 (押し寄せてくるものは)一旦はほっておくしかない。それでも人はそんなに

急に変われない。 借りたものは 返そうとするのが普通だ。 努力はした。追いつかないけど努力はした。

このときの私達の命綱は「現実を受け止めない」ことである。「現実を見なくてどうする」と人はいうけれど

無責任である。  死ぬかもしれない境界線の生き方など人に指図されることはない。 

 話しは戻すけれど 裁判までの 階段があるとすれば 私達にはそれがない。 いきなりである。

誰のせいかはわからない。 でも権力者の 勢いは 少々 ブレーキをかけても止まらない。

相手の訴訟により 裁判に関わることになったのは事実である。 「訴訟しやるらしいな」この問いかけを

母にしても仕方ないのではないか? 水面下でどんな 怒涛のようなうねりが起こっていたのかは

わからない。 でも 本人に確かめてみなければ 本当のことはわからないとは思わないのだろうか。

 私が なんだかおかしい と思うのは あまりにも 相手方の思っていることと行動が直情的であり

極端であり こちらの思いは 代理人がいたにもかかわらず 何一つ 伝わっていなかったことである。

医者が「手術しかない」といえば 患者は「そうなんだ」と思い選択を迫られる。 プロが「破産か訴訟しか

ない」といえば 依頼者は どちらかの選択しかない。でも 私は少なくとも「その間の道はないものか」と

ずっと模索してきたのである。 法律の舞台にはフェアトレードはない。 私にはそう見えるのだ。

そして 最後の最後まで そのずれは 修正されなかった。 悲惨な結果を生んだ背景は これからも

伝えて世の中に 反映させていかないといけないと つらい日々を生きながら思う。    


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六月なのに 冷たい雨が降る夜だった。

電話が鳴って 出ると あるフェアトレード団体の代表のTさんだった。

カタログで彼女の運動、社会活動はずっと知っていた。  まさか電話をもらうとは

思ってもいなかった。 「私達にできることは?」と聞かれ 小さく残っている返済を少し

待ってもらうこと、そして 手漉き紙の便箋の調達を依頼した。  大好きなネパールのコーヒーが

しばらく買えないこと、彼女はネパール往来しながら 手紙と手作りクッキーのギフトを

送ってくれた。  温かくて嬉しかったが お礼の手紙を書きながら 私は 正直に告げた。

本来、好意で送られたはずの 品物に 後日高額請求を受けたこと。 勿論 はなから戴くつもりは

なかったけれど、何の言葉もなかったこと。  贈り物はする方の喜びでもあるはずだということ。

  だいの大人が こういう件について 事情説明もなく 代金のトレードもなかったことに大きな傷を

受けたこと。    雨のそぼ降る夜、 彼女の電話は 私達に強いつながりのパイプを通してくれた。

あのとき 非常に危ない状態のつれあいだった。   その後 私は右腕を傷めてあがらなくなった。

弁護士を始め、いろいろな人に 理解を求める手紙を夜中書き続けたから。  時には 差押えの書類を

送り 自ら「傷」をみせていった。  偏見からつながり始めることにしたのだ。  そこで支援についての

疑問を人々に投げかけていった。  何の思い違いか知らないけれど 「裁判で支援を断ち切る」という

残酷さ。  返済は「話し合えば」 できるはずだった。  相手は返済が目的ではなかったのか・・・・・

   お金の問題以上に 深い傷。   止めようとしても止められない法廷の枯渇。

もう取り返しはつかないのですから、父母に話しかけてほしくない。  探りや録音ばかり繰り返す人々。

何か生きてる心地がするのだろうか?  裁判依存? 権力のある人間は法律の外側にいる・・・・

誰かがそういってたな。   権力のある人こそ 法律をすり抜けず、襟をただして欲しいな。

弱者にばかり 厳しくてどうするの・・・・・貧者に法律を厳しくしてどうするの・・・・・・静かに闘いは

ずっと 続くのだろう。   そぼ降る雨のように。    あなたは 何がしたかったのですか・・・・・

会計処理?  名誉?  永遠の地位?   それは 頭を下げるという選択はなかったのですか?

高い位置にいる人なればこそ。

今だから少し話そう・・・・ 知人の父君が三年ほど前、自死されたが 実は紙一重。

当時の私達も 日々危ない毎日だった。 「せんせ、もう持ちこたえられません」と何度か

弁護士につぶやいたことがある。  でも風に消された・・・・ 「今、破産されたら・・」と都合の悪い事情が

あったのだろう。  その頃 四年くらい前か・・・・ 一家心中するくらいなら子供たちだけは救わないとと

漠然とした感覚があった。  息子と対立して 追い出し状態で 別にくらすことになったのだが

心の片隅には「逃げ延びて」という願いがあった。   奈良で暮らせば 困ったとき必ず 向こうから

再び会いに来る。 そんな遠回りな 思いが漠然とあった。   時代は猛吹雪。  彼は自立するしかない。

ばらばらでも食べ物さえ辛うじて調達すれば 何とかなる。 そう 信じて夜中に息子の布団を彼の新しい

部屋に投げ込みに行った思い出。      あとは 娘・・・・これが大変だった。 自立の一歩に 清見村を

頼った。   「離れなさい・・・・」 深い意味はわからないまま、娘は清見に旅立った。 ひと夏を清見で

手伝いながら暮らし、夏の終わりに帰宅した。  秋からが勝負だと思った。   近くのジョブカフェで

就活の 集まりをしていたので とりあえず そこに赴いてみるようにすすめた。 今から思えば 彼女は

あの時 やけに素直に 飛び込んでくれた。  印刷会社にパートで入るもリストラ。 ハローワークに通い

助成金の講座を見つけ 「前例がない」と はねつける職員に 二人がかりで 実情を話し 書類を揃えて

やっとの思いで通過した。  何とか三ヶ月の講座を卒業し 派遣だが 一年ごとの更新でパートについた。

  子供たちのいなくなった 部屋で 片付けも ままならず 何年過ぎたろうか。 あれから、四度目の春

が来る。   義父も亡くなった。  先日 三回忌を終えた。    丘の上の海の見える墓地に義父は

眠っている。  とても 可愛がってくれた。  私と文通していた 書家で俳人の義父だった。

       話しは一変するけれど 最近 「お芋の研究室」を始めた。  苦しい暮らしのなかで 研究は

一生の修行かもしれない。  内容は またにするが あすにつながる「お芋」の研究をしている。

実はT大学の 先生が お芋を作っているらしく、 広島のUさんが詳しいので ぜひとも 研究をすることに

・・・・・。   詳細はまたにしよう・・・・・・。

二年くらい ご縁のある 冊子の記事に昨冬 携わらせていただいた。

今回、その編集会議にも列席させてもらい、 女子大生から 還暦まで ・・・・多彩なメンバーで

社会や政治、経済、世の中の理不尽や 生活保護まで話し合った。

 濃厚な時間を過ごさせていただいた。  途中 翼の折れた人々のセーフティについて深まり、

人はわからない世界だからこそ、意気揚々と 出航できる話しをした。  海洋の怖さを知っている船は

悠然と出航はできない。  何とか帆を挙げて出航しようとも 港湾から出ていくことはできないと話した。

 女子大生が問うた。 「もう一度出航するには何が必要ですか?」「う~ん」「勇気ですか?」「う~ん違うな」

そんな、勇ましい元気な言葉ではない。   荒れた海洋など実は二度と出たくはない・・・・・ 怖いのだ。

私は 「実は私は翼の折れた張本人」と言うのを とりあえずは踏みとどまって 向き合った。

 編集員の一人K氏は おもむろに「翼のセーフティ」について語っていた。  私は 海洋の怖さを知る人と

何も知らずに夢を抱いて海に出る人とが 海洋で交じり合う話しをした。  共存についてだ。

 翼の折れた人間のまずするべきことは「私は(心にせよ身体にせよ)翼が折れています。」と宣言することだ。

何も言わずにみんなと同じく背伸びをすると 無理がある。  海に夢や希望を抱くこれからの人は眩しい。

怖さを知る者には 同じく夢を語ることは苦しい。  あったとしても夢は100倍小さくなっている。 

陰と陽ほどの違いがある。   そのような格差がますますはっきりと 大きく開いていくのが日本という国だ。

そして 元気な人々は 前向きで そうでない人々を置き去りにする。  明るい人間ばかりが集まることはない。

極陰は極陽を引きつけるという。 心理学的にも 強いものが弱者をかぎわけて近づいてくると言われる。

 そこで中庸する人はまずない。  ますます 格差は広がると言える。  それにしても物怖じしない女子大生

だ。   今更 若さをどうこう思わないけれど この物怖じのない若者とそうでない若者とは 表面的でなくても

激しくぶつかるだろう。  うちの娘だと遠ざけるタイプであり 息子だと 生意気だと食ってかかるかもしれない。

今ほど 若者たちが千差万別な時代はない。 機械のように働いて 死んだ目をした若いものも多くいる。

大学や大学院に通い悠然とボランティアをするようなこもいる。 就活の面接に何十回も落ちているのもいる。

契約や派遣で常に次の未来の不安を抱いてとりあえず生きているのもいる。  ブラック企業で虐められた毎日を

送るこもいよう。  穏やかに安定した職業で奈良マラソンに出る余裕人もいる。 ジェンダーに悩むこもいる。

とにかく 50代は大変だ。  自殺者が一番多いという。  ひと事ではない。 なんどあの世の扉が見えたことか

。    2時間あまりの編集会議は 後腐れなく さっさと終わった。   PTAのようなずるずるした引き伸ばしの

時間はない。   みな 次の仕事があるのか 潔い。  私も救われた。  8時過ぎに戻ると 月ヶ瀬の

F夫妻が来訪していた。  こちらの身体を心配して 治癒を申し出て下さっているのだ。 こうしたことに何ども

助けられている。    足と腰を引きずりながら 今日も生きている。

長いトンネルを越えてきた・・・・

膿みを出し切るために。 ずっと呟いてきた。 声をあげてきた。

すべて 膿みを出し切る そして 前に進むために・・・・

たくさんの人と話してきた。  膿みを出してきた。 うわべの治療はいらない。

そのために 食べ物も変えてきた。  煮え湯を飲んだ分 身体には優しくしなければ

ならない。   膿みを出して 治癒していこう。  心も身体も 人に弱みを見せて

膿みをだして 歩もう。   それが 自分の人生。   膿みを閉じ込めて生きている人は多い。

何をしても 何か足りない。  何をしても 満足しない。  何をしても不機嫌で 何をしても納得しない。

そんな人は 心にも身体にも 膿みを封じ込めていることが多い。  自分で封じ込めて 対面は笑っている。

元気なふり、 楽しいふり、  ・・・・ 疲れた自分をいつも隠して 涙は一人で流し・・・・もう 卒業する。

アンフェアはいらない・・・・・・