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もうひとつ、小学校一年生くらいのおはなしです。
家の近くに柳田川という河川が流れていてそこにぼろい木橋がかかっていました。
橋から堤防を下る斜めの野道が鋭角に通っていて坂道を下ると水路にあたります。 道はそこで
水路に沿って平行に通っていました。 幼馴染のみいちゃんと年下のさとちゃんと私は、たしか
さとちゃんの家にあった古い大きな乳母車でバスごっこをしていました。 たぶん活発なみいちゃんの発案で
乳母車で坂を下ることになりました。 何となく「危険」と思いました。 でも小さいころなので、活発で強い子
が言い出すと反論せずにつきあいました。「その遊びはあぶないのやないか」といいました。「乳母車を押して
いる人がしっかり持つなら大丈夫やん」 という会話だったように思います。 私はそこで「んならみいちゃん
が乗れば?」と 言えばよかったと思います。 しかし、なぜかみいちゃんは優越地位にいました。
結局、私が乗りさとちゃんが押すことになり、みいちゃんは指示役になりました。 この位置づけがもはや
この先のなりゆきを決定しているように思えますが、そのときはわかりません(笑) 坂の上から乳母車に
乗ると自分の力や判断ではどうすることもできません。 さとちゃんに「離さないでね」というと「うん」と力を
こめて取っ手を握りました。 下り坂は押すのではなく加速は勝手につきますから、むしろ「転がる力を止める」
ことが必要です。 平地まで無事に着くだけで「善し」というところでしょう。 ですがそんなことは、とくにさとちゃ
んには解りません。 車の加速に足をとられ自分も走ってしまいます。 不運はそこからでした。
それだけでも危ないのに、みいちゃんは横から「離し!」と叫びました。 さとちゃんはみいちゃんの命令に
手を離してしまいました。 車は加速しながら水路に・・・・・・。 水は少なく泥に汚れ、今と違って
コンクリートでなかったのが幸いでした。 金属製の車であちこちを強打しました。 けがに加えて・・・・
心の傷・・・・・みいちゃんは焦ってさとちゃんにいいました。「離せというたんやなくて早し(はよし)というたんや」
さすがに、これは母にばれました。 ことの責任は無力なさとちゃんに向けられ母はみいちゃんの話を信じ
さとちゃんを叱り、家に追い返しました。 私は傷みとショックで傷の手当をして布団に横たわりました。
みいちゃんは、母に気に入られ私の横に座り、私を見舞う形になりました。口がきけませんでした。
でも「おかしいな」と思っていました。 みいちゃんがいくら今から優しい言葉をかけてくれても、本当に悪いの
はみいちゃんだと確信がありました。 さとちゃんは、確かに車の取ってを離したけれど、みいちゃんに虐げら
れていたからだ。 さとちゃんも悪いけど、みいちゃんが一番悪い・・・・そう思いました。 でも母は忙しく
その件はそれ以降追求することはありませんでした。 私には小さいころから確かに目をこらして真実を
見ようとするところはありました。 ただ、それを抗議したり対立したりという力がなかった。あるのはさとちゃん
のような子供をかばうことでした。 でも、自分が犠牲になっているのに人をかばう・・・・これはよくありません。
自分をまもること、そして大声で泣きながら声をあげていくこと、 小さなころに繰り返ししていれば
同じような目にあうことはありません。 でも子供でしたから、心なしかみいちゃんも罪責の念はあったのでし
ょう。 私の不幸、 それは乳母車で犠牲になった不幸、そしてもし私がさとちゃんでも全責任を
負ってしまった不幸、 もし、私がみいちゃんなら重大責任で立ち直れなかった不幸、 どのポジィションでも
不幸だったことです。 そしてみいちゃんは、たぶん、どの立場でも人に責任を押し付けていただろう
ということです。 本能的、動物的にそう動く人間がいるということです。
実はみいちゃんは、今でも幼馴染の一人です。 住むところは遠くなりましたが。
暮らしは見えませんが、たしか途中までは「自分の思いとおりに」生きていました。 これから先
私がみいちゃんよりも幸せになれるか???? 大人になってからのみいちゃんは、人並みに優しく
私にも親切でした。 ^^ 一度電話してみましょう。 ライバルとして^^
** ブログの著作権は放棄していません。無断転写をお断りします。
それは幼少のころ、まだ小学校には上がっていなかったろうと思われます。
住んでいた家の隣は片や「床屋さん」片や「お風呂屋さん」でした。
その床屋の息子が小学校6年くらいで、いわゆる悪がきでした。
でも幼少の私には「大人のお兄ちゃん」に見えました。
母が何の工場か・・・・勤めていたので、そのお兄ちゃんと何となく母を
訪ねていきました。
その時代は、かぎっ子はよく母親の勤め先に現れてあたりで遊んだり、
待ったり、同僚のおばちゃんにかまってもらったり・・・・
上下関係ははっきりしていましたが、わりあい雇用のゆったりした時代でした。
「こんなとこまで来て・・・・」といわれましたが、とくに母に甘えるつもりもなく
何とはなく来たのでそのまま帰っていきました。
帰り道にJR和歌山線が走っていて遮断機をわたり数十メートル先の
豊年橋という橋を渡るのですが、床屋のお兄ちゃんが鉄橋を渡ろうといい始めました。
「いけないこと」と思っていたので、「いやや」といいました。
でもお兄ちゃんは大丈夫やと引っ張っていきました。
下は川の水・・・・怖くてたまりません。
早くわたらねば・・・・・そのとき遮断機がなりました。
・・・・・へ・・・・・・・足がすくみます。
え?・・・・・床屋の兄ちゃん、いえ、悪がきは慌てて一人で
走り去り逃げていきました。え?・・・・・列車がきます・・・・・・
そのとき、欄干の工事のおじさんが二人いて、大急ぎで走ってきてくれて
私をかかえ鉄橋を渡り終えてくれました。
九死に一生・・・・・ おじさんは兄ちゃんを見ていたらしく「悪いやつや!」
といい「あんな子と遊んだらあかんで」といいました。
その話は母にすぐ言えませんでした。 心配させるのが嫌でした。
ずいぶん後になってからしたような気がします。
波乱の人生の幕開けだったんでしょうか(笑)
* ブログの転写、引用はお断りいたします。
ブロ友さんの羊飼いさんのブログでのご子息のお馬鹿記事に誘われて^^私もお馬鹿記事に
させていただきます。 いきなり今日のことです・・・・・ 実は二、三日、近年まれな風邪ひきに見舞われ
(ああ、私もやっと風邪をひく身分になったのか)と、熱、悪寒、鼻、のど、頭痛・・・・ほとんどの症状で
一日半、寝込みました。 絶食をし、昨日から少しずつ食べながら生きながらえてきました。
その間、夫は喉の痛みにきく「黒豆の煮汁」を作ってくれて、これがたいそう効きました。 頭と首には
サトイモ湿布、飲用に大根おろし入り梅醤番茶とすべて自然食品で自然治癒力を信じてみました。
薬は一度だけ、市販の頭痛の薬を一粒だけのみました。 今日はみごと・・・・かどうか、回復の途上に
あるといえます。 それで、たまった洗い物を朝からがさごそ片付けていました。 ホームウェアで
赤いちゃんちゃんこを着て家事をしていました。 ふと・・・・水道の湯を出したはずなのに、洗い場に流れる
形跡がありません。 蛇口をひねったのにおかしいなあ・・・・? すると、どう思いますか?
ちゃんちゃんこの袖口に蛇口が引っかかり、湯は自動的にちゃんちゃんこの袖からいわゆるたもとに流れこ
み・・・・ちょうどたもとは袋状になっているので、見る見る貯水湖になっていました。「うわ!なんやねん」
あわてて蛇口を止めたけれど、すでに満水状態(爆) どうやればそんなことになるのか・・・・といわれても
わかりません。 普通のカーディガンとかなら、濡れたらすぐわかるんですけど、なんとなく左手が重い程度
だから・・・・家族に話すと「そんな奴はいない・・・・」と連呼され、あるいは「けいこらしい」と納得され・・・・・
それが私のお馬鹿・・・・そして、馬鹿にして笑った息子に仕返しは倍返し(笑) 「あんた、笑うけど昔、ウナ
ギのプールにはまったやろ!」 「覚えてるわ」 そう、大型スーパーの「うなぎ釣り」のイベントを姉と二人で
見ていた息子、 近くで買い物をしていた私は姉と弟に目をやりながら、ふと目をはなしたあと・・・・・
「バシャ~ん!!!!」え?・・・・・・一瞬何が起きたかわからないで目を凝らしてみると、なんと!
誰かがプールにはまって、周囲が呆然としている・・・・・あれは・・・・・わが息子では・・・・?
プールといっても、イベント用の組み立てプールで周囲はぐらぐら、家庭用のビニールプールの大きい
バージョンで浅いのですが、スタッフがあわてて助けています。「え?」 娘が「ママ、たーくんはまった」
ほとんどげらげら笑っています。 もちろん、溺れる心配はありません。でも笑い事でないのは本人と
イベントのスタッフ。 服を乾かしながら、「ごめんね、ごめんね」「すみません!」いえいえ、うちの不注意で
(笑) なんとも「うなぎのプール」というのが、間抜けているので笑いがとまりません。 「大丈夫?」
「お姉ちゃん助けてと思ったのに・・・・」と息子。 助けるどころか姉はげらげら笑っているのでした。
今日、その話をしたら「笑うけどな・・・・うなぎにょろにょろが何するかわからんやろ?食べられるかと思った
んや!」 と説明。 なるほど・・・・うなぎが何者かわからなかった。金魚なら安心だっただろうな。
「だけど、ピラニアやないんやから・・・・・」 「今ならわかるけどな。そのときはわからんかった。」
うなぎが見た目、蛇と同じで気持ち悪いと思ったんでしょう。うなぎが人を食べる? ん? 逆やろ・・・・・
そんなに気持ち悪いなら、はまるほど近づかなかったらいいものを(笑) たぶん、プールサイドが
思ったより緩くて体重をかけてしまったんではないかと思います。 でもスタッフがお詫びにミニカーを
プレゼントしてくれて、息子はしっかりとミニカーを握り締めていたのでした。 よかったね・・・・・だけど
姉ちゃんとママは恥ずかしいやら、笑いが止まらんやら・・・・・息子、あんたは偉い!
家族の歴史にいい思い出を作り、周辺を笑いの渦に巻き込み、イベントのスタッフにも責任を実感させた。
しかも、大惨事にはならなかった(笑) 水がこぼれ、うなぎが数匹飛び出しただけ。 うなぎが自分を食べな
いともわかった。 しかも、ミニカーを手にいれた。いい経験ですんだね・・・・・ かんぱ~い!!
しかし、私の鉄橋に置き去り事件は笑い話ではすまない・・・・・これは後日談としよう・・・・・・
* ブログの転写、引用は絶対お断りいたします。
買うものもなかった。 たまたま、払い遅れた料金を持って朝のコンビニに出かけてみた。
用件はすぐに終わった。 店員の扱いがぎこちない。 ちょっと不安な手さばきと要領だ。
しばし、世間見するか・・・・・くるりと店内を歩いてみると、昔のコンビニ時代よりも、食材というか
お弁当やおにぎり以外の真空の惣菜のアイテムが増えたなと感じる。 そういえば、バラエティ番組で
コンビニのホットメニュー(からあげ、コロッケ、フランクフルトなど)が自宅用の晩御飯のテーブルに
並ぶことが多くなったと聞いた。 主婦層がスーパー同様にコンビニ商品を使うようになったらしい。
コマーシャルで、私の好きな財津和夫さんの「青春の影」が流れ、とあるコンビニの食品が朝のテーブル
に並び、老夫婦が和食と洋食を仲良く分け合って食べるCMがある。 BGMがすきなのでつい目をとめた。
コンビニのイメージ、学生や若者、外まわりの労働者などが出入りする以前から、主婦や老人が使うように
なったのか。 考えてみれば広いスーパーをうろうろするより、売り場のわかったコンビニのほうが、
簡単でいいのかもしれない。 生活感の疲れも少ない。 支払いもできるしATMもある。
私はたまにしかコンビニに入らないけれど、うちの店もそういう見方をされていると感じる。
手仕事でものは不ぞろい、食品も自分が使う篩にかけたものしかないけれど「衣食住」は何とかできる。
春が来ようとしている。 花粉だか・・・・目や鼻が痛い。 曇り空の朝の丘のコンビニ風景。
たまにはいい。 家中で家族と葛藤ばかりでは疲れる。 ひとつ、 無印のメモ帳を買った。84円。
背景はいいかもしれない。 小泉の丘の上。 数百メートル離れて二軒くらいコンビニがあるけれど
どうせなら、さわやかな丘の上、 朝陽もあたり、斑鳩に沈む夕陽も、月の出も見える場所。
ほめ言葉になるかどうか?・・・・・・ またいつか来よう。 潰れないでいてほしい(笑)
* ブログの転写引用、お断りしています。
適度に運動をかねて、近場をうろうろしようということで、彼が昔住んでいたという大東市へでかけました。
生駒山の向こう側、なんですが私は縁もゆかりもないところ。 JR大和路線で久宝寺から初めての路線
に乗り換えます。東西線、放出(はなてんと呼ぶ)で乗り換えて今度は学研都市線に。 基本、大阪の町なので
あまり景色はよくない^^ 高層ビルやマンションが立ち並び、時々、大阪の下町という感じ、
変哲のない景色が続きます。着いた駅は住道(すみのどう)駅。 三十年は昔でしょう。 まったく駅は変わっ
ていたようです。 近頃、JRの駅はどこも同じでつまらないですね。
降り口も二箇所あり、駅舎も様変わり・・・・(私は知らないんで^^) 知っているだろうとついていっても
一緒に迷うだけ。 何一つ残っていない様子です。 (そうだろうと思うけど、それなら懐かしくもなんともないだ
ろ) 片隅の古い大木や古そうな家屋を指差して「ああいうの記憶ないの?」と訊ねても首をかしげます。
「やれやれ・・・・・」 犬連れの老人に尋ねるか・・・・・さまよった挙句、反対側だと判明(ドテッ)。
区画整理された駅前を、またもや横切って反対側にでましたが、影も形もないのでどうにもしようがない(笑)
かろうじて「駅のすぐ右に新聞配達していた代理店があった」というので右方向へ歩きました。
古い商店街があり、ほとんどがシャッター街です。こういう風景はさみしい。 いまどこに行ってもシャッター
商店街でがっかりします。 元気な街はシャッターがない。 こんなアーケードはコロッケや惣菜やさんや
食堂や純喫茶、薬やさんや本屋さん、う~ん、はんこやさんとかが並んでいてほしい。 「こんな商店は覚え
あるでしょ?」 と聞くけれど「あったやろうけどなあ」「ほんまに、ここに住んでたんかあ?」(爆)
商店のはずれに来ると橋があります。 その橋のかかる川がおかしな川なんです。
河川の堤防はなく左右が鉄の壁で連なっています。 「洪水で胸まで浸かった覚えがある」ええっ?
橋の設立は昭和54年、 昭和49年の恩智川の水害は死者もでた大惨事だったようです。
「アパートに住んでる高齢者を背負って助けた」そうです。 それでも新聞配達は休めなかったと。
「下水もごちゃまぜの水の中を配達した。」 そうなんや・・・・・お疲れ様。 どうりで周辺は、堤防ならぬ
川の壁面を高くして、当時の災害の痛手の防御がよくわかります。 人工的に川を二分して水流を分け
洪水を阻止しようという策のようです。 よどんだ水の流れる川は、昭和の痛手の残る川。
路地裏に出会うたび「こういう路地に昔の名残があるんやない?」と話しましたがどこがどこやら(笑)
やっと、道のはずれに●●新聞販社の文字が見えました。「あ~ここや、場所は変わってるけど」・・・・
思い出にたどり着いたようです。 街は急に高架橋があったり、いびつな建物があったり人工的に
複雑な地形を作り出していました。 どうにも、手痛い水害だったようです。
「ここらにダイエーがあったけど」 今は京阪百貨店となっているようでした。 アルバイトをしていた
ケーキやのメーカーは当然もうありません。 建物のなかでは美味しそうなカレーを見つけ遅い昼食を
とりました。 詳しくは彼のページで再度ごらんください。