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 痛手を負った身体と精神世界から生きるしくみを 作りなおしています。  人と人がフェアトレード できる社会、幸福感を作ります。
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 物事は複雑になると、ぐるぐる回りながら迷路に陥ります。

こういったブログを書いていると、とくに頑なで複雑な人格と思われやすい。

そして、書いてきてよかったと思います。  物事を静視すれば、問題にはとても単純な解決策が

ある。   普段、単純に解決してきたことでも、法だとか、権力だとか、人間関係だとか、からまり

あうとどんどん複雑になっていく。   深みにはまるので、さなかは気がつかないのです。

 法のハードルが高いなら「くぐるだけ」と話しました。  そう、答えは簡単です。

相手が法で固めようとしたのは、直接的な人間の対立を避けるためです。  しかし、それは間違っていた。

相手がどうであれ、私の出した答えの単純さに、我ながら「唖然」としてしまいます。

 「対立を畏れたこと」   いや、正確には何度か話し合いという名の「対立」もありました。

相手が「法」に逃げたのです。  そのために、更に遠回りをすることになった。  「法で勝てる」ように

作られてきたので、無駄な遠回りをしました。   それでも頑張るのなら、もうやはり解決は一つです。

 人間を恐れず、対立を畏れない。  その力が希薄でした。   本当に単純な答えです。

もともと、自分は単純性の人間だった。  長い年月の出来事も重なって、いつしか人と迎合するのが

当たり前になっていた。  「うまくいく」ことばかり努力していた。  そんな必要はなかったのです。

その「単純性」を取り戻し、解決に向かうことが、できるような気がします。   今、夢りんごのしていること

は「単純」そのものです。  頂き物もしますが、御礼も単純な感謝。  人の気持ちにも素直に感謝。

 取り戻すのに、随分遠回りをしました。  勿論、決して無駄ではなかったけれど、・・・・・・

何か起こったとき、「話しが違う」と一刻も早く、相手と向き合うこと。  私はその重要性をみんなに伝えます。

すぐに「自分のせい」にしてしまう罪責感のある人が自分を含め、多いように思いますが、それは無用なのです。

しいて言えば、 罪責感など持つ必要がない相手である場合が多い。 こちらが相手のことを考えるのは

無駄なのです。  数字や書面で判断し、自分が何を言ったかさえ忘れていたりする。  どんな約束を

したかさえ、こちらがブレーキをかけているのに、アクセルを踏んで逃げたことさえ。  基本、請求書つきの

「好意」や「善意」などない。  近所であろうと、母が心配であろうと、ビジネスの対立は、弱者になる前に

どんどんするべきです。  法的になっても、畏れることはありません。  とにかく、時間がかかっても

「対立を畏れない自分を築く」ことから始めればいいんです。  そういう自分になるためには、色んな

ことが修業のように起こります。  すべて、それに気付く自分になるために起こるできごと。

  「世の中には、素晴らしい人がいっぱいいる」と言い聞かせながら、失望しても失望しても人に

向き合うことを畏れない・・・・・これが、単純にして難しい解決策です。



                                       ( ブログの転写をお断りしています。  )
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心の復興をしていたら、身体がやられてきました。(笑)

みなさんとのお別れも近いかもしれません。  一生懸命書きます・・・・!

 この頃、体調を見合わせながら、命からがら生きています。  家族にも心配かけどうしになりました。

何しろ、病院の薬で数回、意識不明になったことがあり^^  無駄なお金もないので、病院には

随分行っていません。  検査すれば何が見つかるかわからない(爆) とりあえず、不整脈と脳のあたりの

持病には気を配りながら、何とか自然療法で生きながらえてきましたので、病院に行くのも大変です。

 簡単に行ってましたが、これまた痛い目にあってからは、二の足を踏みます。   

::::::    ::::::     ::::::    ::::::

そうしていると、  久々にカナダから、埼玉の実家に帰っていた、友人のたくちゃんが、例によって前触れもなく

訪ねてきました。  友人のブロ友さんを連れてきていて彼は愛知からふらふらと奈良に来たようです。

 青春18切符で旅をしていて明日、帰るそうで今日は燈花会の初日なので見て帰るということでした。

物書きの匂いのする彼は今、無職。   奈良が居心地がよく、暑いけれど歩いていて気持ちよい・・・・らしい。

 方向音痴なのに、奈良やあちこちを放浪しているようです。   不思議な人ですね^^(え?私に言われたく

ない?そりゃそーだ)   そうして、話していると、カナダからの友人たくちゃんは「実はこの店の上の部屋

に住むことになった」  と、これまた抜き打ち・・・・(笑)  え~! (それを先にいわんかい!) 

「いつかは奈良に住みたい」とは言ってたけど。 埼玉でしばらく落ち着くようだったので・・・・・

この無人駅前がいいと、以前話したときも言ってたけど、えらい突然です。   五階の広い3DKが格安で。

「貧乏なので!」と頼み込んだ様子。  うんうん、「よく見せようとしてはいけない」と私も思う。

お金がないのはちゃんと伝えたほうがいいね。  お金がないこと、痛手を負ったこと、しくじったこと、

そう無職であること、 できるだけ、欠点を最初から見せたほうがいい。  そして、つきあえる人とは続いて

いく。 壊れても、また復活することもある。  私は最近、お世話になった人に、ちょっと砂をかけてみたり

します。   悪い性格ではありません。 お世話になっても、対等でいたい。  貧乏でも「貧乏だけど、

友達で」。   それができないなら、離れてもしようがない。   そう、実は「ありがとう、さようなら」と告げて

いるのかもしれない。   何も悪いことをしていない友達と「別れる理由」はありません。   でも

これから、どうなっていくかもわからない。  もしかしたら応援してくれた人を相手に商売するかもしれない。

生きていくということは、そういうことでしょう。  生計をたてるということはそういうことでしょう。

どこかの会社のように、生死に至るような騙し方はしないと心がけていますが、弱者が生きていくということは

拒絶しても、物を伝えて販売するということに綺麗ごとは通用しません。   身体の続く限り、生きていく

ということは、食べていくこと生活していくこと、積み上げていくこと、ひとつひとつの支払いをしていくこと。

 カナダの友人も、これからはただ「心通う友達」だけでは続かない。  お店を手伝ってくれたことも

あるけれど、これからは「無償」というわけにはいきません。  今、夢りんごでは、 取引のあるフェアトレード

の会社、WWB ジャパンの協賛で「田舎で働き隊」を募集しています。    定員は22名で全国各地の

農畜産業地などに居住、農業や地域のつながりを持ちながら、暮らします。   研修手当ての上限は月

14万円で、来年3月までの最低、6ヶ月程度です。  農業などの肉体労働のみならず、デザイン力や技術

力も必要とします。   夢作文を書くのが条件です。  詳しくは 夢りんごまでお問い合わせください。

                            0742ー27-6538(ファクス同じ)

*   ブログで見た、田舎働き隊の件   とお尋ねください。  詳しい情報と条件をお知らせします。

農作業や漁業ではなく、事務や技術を活かしたい方も連絡ください。  みんなで、何とか生きていきましょう。

もたれあうことなく、 寄りかかりあうことなく、一人ずつが独立峰となって未来に向かって・・・・・・

                                                        (続)




 昨日はお誕生日だったので、家族に美味しいものを作りました。(うちでは、誕生日の人が奉仕するのは珍しくない)

といっても・・・・* アナゴの切り身160円分で、「焼きアナゴの柳川風」

         * キングサーモン120円分で、「サーモンマリネ」

         *  小松菜と豆腐、こんにやくの「白和えごま味噌」

         *  前日、訪ねきた不思議な老夫婦にもらった 「桃」
          
         *  スーパーの500円分チケットが出て買った 「生酒 真澄」

でした。    老老介護に近い夫婦なので、量はいりません。  プレゼントはやっと給料が貰えるようになった

お姉ちゃんが、夏のセールで「チェックのチュニック」を買ってくれました。(後日アップできたらします)

おっとは、お金がないので「一日したいよーにさせてくれるサービス」と「ロールケーキ半きれ」(え?たいてい

したよーにしてるやろって? それは仲良しのブロ友さんだけ!) 息子はミーティングとバイトで「メールのみ」

それから、友達からのメール・・・・    なので昨日は体調も整えるため「大人しく過ごし」夕方、

学園前の日帰り湯に行きました。  そして自分は「手打ち、きつねうどん」で満足満足です!

::::::     ::::::     :::::::  :::::::

  さて、親しさについて・・・・続編です。   子供の喧嘩みたいな大人の関係・・・・についてお話します。

子供時代、お友達が遊びにきてくれました。 二人・・・・みっちゃんと、あつこちゃんです。  嬉しかったけど

二人は新しいお人形を持っていて、けいこに貸してくれませんでした。だから、つまらなくて、嫌でした。

違うことで遊びたかったけど、なかなかお人形遊びは終わらず、夕方まで続きました。 そして「さようなら」

です。  この「けいこちゃん」みたいな思いをした人は幼少時代いるでしょう。 また、みっちゃんたちのような

経験もあるかもしれない。  この場合、「けいこちゃん」は、面白くなくてもう遊ばないか、我慢しても一人より

いいからまた遊ぶかのどちらかになりやすい。  つまり、ずっと「不利な存在」です。私はこれが、大人にも

起こってしまう・・・・と思うんです。 でも、大人の能力というのは、違うはず。 みっちゃんたちが「みんなで

遊べること」 を提案してくれる・・・・場合もありますが、ここでは「けいこちゃん」の不利な立場について話ます。

  「けいこちゃん」はみっちゃんたちに「みんなで遊べることをしよう」と言う。 もしくは「来てくれたのは嬉しいか

ったけど、お人形がないことだけ、哀しい思いをしたので、今度は違う遊びをするか、私にも貸してね」

と、ちゃんと言わなければ、「けいこちゃん」は少なくとも、このチームの中では「幸せ」になれない。ということ

なんです。  でなければ、心の中で「仲間はずれにされた」と思いながら、友達を続けるので、決して

「しあわせ」になれないと。  子供同士だと、このまま「強者」「弱者」ができてしまったりする。 子供の世界

では、どうしようもないかもしれない。  とにかく、いつも大人が仲立ちするわけにもいかないので、

そういう「子供時代」だったと振り返る人は多い。 もちろん、みっちゃんたちは、罪悪感もなく、それどころか

とっくに忘れている・・・・・これが現実です。  でも、大人になってから、そういう体験をしたら・・・・・子供時代

のようにせず「チームの中で解決する」これが、生きるルールです。  誤解が誤解を呼んで、奇妙な方向に

ずれていったとしてもよい。と私は思います。   少なくとも、また会うときに「我慢しながら遊ぶ」より、

「あの時は哀しかった」と言ってしまうほうが、精神衛生上、よいと思う。 たとえ、それでみんなが去ったとして

も、それなら「一人のほうがいい」と思うし、その一歩強くなった「けいこちゃん」は次に誰かを本当の友達に

できるような気がするんです。   今更ながら、この「けいこちゃん」になっていこう! とこの歳になって

思いました。    この「けいこちゃん」は過去の私です。  そして、この姿勢が本部との関係にも

つながっている。また、別の人間関係にも影響している。   この、不利なポジションにいる限り、決して幸せ

にはなれない。越えていこう!  と気付いたんです。  「あの時嫌だったこと」を話すのは相手にも

心地いいことではないでしょう。  しかし、一度壊れても、「本当に親しい友」「本当の関係」が築けるほうが

ずっといい・・・・・ そう 思いはじめた・・・・・夢ちゃんです。      (続)

真夏のお誕生日・・・・・実はずっと嫌でした。  夏休みでみんな覚えていてくれない。 前日にアピール

することもできない。 (笑)                
  

 何ということはないけれど、何となく「何やってもうまくいかへんなあ」という時があると思います。

そういう時は、きわだって特別なことをしないほうがいい。  例えば、長い期間、運転していない人が

「せっかくだから運転してみるか。」とか・・・・・要するに、外に向かってぐいぐい行くときじゃあない。

そんな時はあまり何もしないほうがいい。   そういう時は「気」というか、私はよく解からないけれど

「何をやってもドボンする」    というように背中を押されている。そういう時はむしろ「自分ならし」をした方が

いい。どういうことなのか?というと、お寺の長い廊下を床の板目に沿って拭く・・・・というようなこと。

或いは庭の砂目を決まった方向にきちんとつける・・・・というようなこと。これを「心ならし」と私は思っています。

家だと机や戸棚の整理をしたりする。いつも拭かない階段を上から下まで拭いたり、花を生けたらとにかく

毎日水を替える。  すると何かが変わってきて「そろそろいいよ」という声が聞こえる。それからが「活動期」

だと思います。  「心ならし」をしていると外に向かっていったときに、風雪に耐えられないことが少ないと

も思う。  人の誤解を恐れないというような余裕も生まれる。 ネット社会では誤解や勘違いも多いけど

都度、フォローしなくてよい。 しばらく誤解があってもよいかな~と思うときもある。

 誤解というステップを踏んで、それがあるから理解がある。  つまり人はくっついたり離れたりする。

切れてそのまま~ではなく、離れたり近づいたりして生きていく。その訓練をしていきます。

これは・・・・・私の持論です。^^        同じ、仕事をしていた夫婦で、フランチャイズの終わりの

本部との闘いで、これはもっと大掛かりなプロのような人でしたが、やはり奥さんがうつになられた。

同業者でも「奥さんが倒れた」ところもある。 「家族がめちゃくちゃになった」人もいた。

私たちも例に漏れない。いや、近しい関係が余計に事態を悪くした。  もう、生還できただけでもいい。

でも、やはり、他の人には耐えられないこともやり抜いてきたのだから、これは自分たちの切り拓いた道

なのです。    自分をこれ以上追い込まないように生きなければなりません。    (続)

心の復興へのバロメーターは、「あれこれ考えずに言葉がかけられるか」「人がどう思ってもだいたい平気か」

「強い言葉が返ってきても、少し引いて、落ち着いて対応できるか」などなど、自分なりに小さな挑戦を

することから始めます。   前にもいいましたが、足や手の怪我は見て伝わります。

身体の病気は怪我ほどではないけれど、伝えることはできます。  心や脳の傷はなかなかわかりません。

また、誰彼なく伝えません。   人は見た目ではわかりません。  

昨日、九州大学で教授をされていた精神科医で作詞家でもある北山修さんが興味のある話しをされていました。

「帰って来た酔っ払い」♪  で日本中をブレイクさせたフォークルセダーズでしたが、一躍マスメディアに

引っ張りだされて「心」を置き去りにされたと。 それで、その「心」の部位に戻るために、一線から退き

臨床心理と向き合ったのだと。 とてもナイーブな方なんだと思いました。   共に歌って、昨年世を

去られた加藤和彦さんも、優秀にしてナイーブな方のようでしたが、いい仕事をされる方というのは

まさに「震えるアンテナ」を持っておられるのでしょうか。  それにしても63歳、爽やかで飄々として

「あの素晴らしい愛をもう一度」のまんまですね。      遠回りしましたが、心の復興は、ゆっくりと

建設的に・・・・・が目標です。    よく、何かあった時に「現実に目を向けて」といいますが、

個人的には、あまりにも怖いことや酷い出来事、哀しい出来事が重なった時は私は無理してみないほうが

よいと思います。全部を直視できる強い人はそうすればよい。   でもどうしてもできない時は、とにかく

下でも横でもいいから、直視しないで黙々と歩けばよいと思います。  太陽と現実はことによると

直視しないほうがよい(笑)   これは「逃げ」の姿勢ではないので、或いは「逃げ」だとしても構わない。

そのうち、何が起こったか・・・・だんだんわかります。 その流れに従ったほうがよいと思うのです。

 数ヶ月前の帰り道、 交差点で信号待ちをしていて、大きな事故を目撃しました。 速度を落とさず

衝突したので片方は大きめのバンだったんですが一瞬にして宙に舞い上がり、運転席を下に落下したのです。

もう片方は前がめちゃめちゃに壊れました。 それはもう、スローモーションで、あたりは静まりかえり

私は「何かしなくちゃ」と思いながらも手足、身体が震えて信号が青になるのを待ってやっと左折して止まる

のが精一杯でした。 ガタガタ震えて降りると、その頃には後続の車や人が集まっていて、救急車や

消防車までが、到着しました。  また、早春に義父が亡くなりましたが、「事実」を聞かされても夢のよう

だったりします。  白日夢のようなのです。  人が見れば「大丈夫」のような気がしても、後から立ち直る

ことができないことも往々にしてあります。   戦争体験の人たちも、災害の被災者の人たちも、もしかしたら

そんな風に越えてこられたかもしれない。 家族や恋人、近しい人を亡くすということは、その後を生きる者

にとって、すぐに直視していけることではないかもしれない。 ニュースで、事故などで家族の中に、

たった一人残った人などがいると「どうやって生きていかれるのか」と思うけれど、これはもう・・・・・

今までの過去の一切が「無かった事」として、何も感じないようにいくしかないように思います。

現実として受け止められることではないという気がします。 その時、頑張っていけばいくほど、後から

心の復興がついてこないかもしれない。  だから・・・・・直視できなければそれでよいと。

 傍目から「何してるんやろ」と思われても、生きていくだけで大変な時期はそれでよいと。

やがて、何が起こったのか、わかってくる。思い出すと怖くなったりするかもしれない。  それからが心の

復興だと思います。 また、好きな人の言葉でしたか・・・・「心の苦しみは外に出し、やがて社会に生かされ

なければ、苦しみ損である」と。   いきなり社会に生かされることなどありません。  心の復興と苦しみが

社会に生かされるということは、ベクトルが同じだと思います。  今、小さな挑戦をしながら、心の復興に励み

ます。 途中でまた、何かあるかもしれない。   当然、人生のピークですもの。   下り坂になるまでは

まだまだ、辛いかもしれない。 いや、人生は下り坂だって結構、大変だと思う。  その都度、負けていい。

そして、心の復興を積み重ねましょう。   少しは免疫もつくかもしれない。 いや、相変わらずかも・・・・・

                                                     (続)