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 痛手を負った身体と精神世界から生きるしくみを 作りなおしています。  人と人がフェアトレード できる社会、幸福感を作ります。
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 休日の午後、片付けものの中から、つれあいが義父の手紙や記事の郵便を見つけました。

信州人の義父が、故郷信州への思いや、地図、写真などを送ってくれたのでした。

3月に他界してから百か日が過ぎました。 しっかりとした文字で便箋の表一枚目に句がかかれていました。

  「 安堵といふ    小さき眠りを    深くする    」 桃櫻

これは、私の知る限りでは、義父の辞世の句だと思いました。

何故、今ごろ見つかったのか、わからないけれど義父はまさに、「大丈夫」とつぶやいて深く深く眠ったのでしょ

う。   他界する二日前の不思議な出来事がよみがえります。とてもよくしてくれた義父でした。

 人生はあっという間です。    容赦なく、月日は過ぎるし容赦なく別れはきます。


両親を安堵させてやりたいけれど、そうすれば別れがすぐに来るような気がします。

「思い残すことはない」と言わせてあげたいけれど、もう少し、この世に執着していてほしいとも思います。

 そんなことを思っていた今年の始めからもう半年。  上半期は過ぎてしまいましたね。

梅雨はゲリラ豪雨と名を変えて、ここんとこ近畿や中部に居座っています。  とてつもない大雨です。

七月は真夏・・・・と思っていたけれど、こんな梅雨真っ盛りとは、いつから季節がズレたのでしょうね。

さて、旅支度とは、一度ブログ内容を整理して、然るべきけりをつけることをいいます。

  私にしては色々と、見苦しいことも書いたじゃないか・・・・・と思います。 心の整理をつけて

 次のステップに臨みます。   だから、ブログ友達さんは、荒野の虹ですって(笑) ほんとうなのよ・・・・

本当にお付き合い感謝しています。  だからこそ、呼び捨てたり、突き放したり、親しくさせてもらいました。

改めて、夢りんごなりの方法でお礼に伺いますね。  少し時間がかかるけど・・・・

人は生きていると、途中で仲間の輪を外れて、自分だけが進まなければならない時があります。

 何故よ?と聞かれてもわからないけれど、とにかく自分はただ、温かい人に囲まれているわけには

いかない・・・・・というような衝動のようなものです。   昔、今は流行らない演歌のなかに

「男の旅立ち」のような歌があったでしょ?  同じ年の人ならわかるよね?  要するに「好きな女性を置いて

何故だか旅に出る(笑)」という歌詞で、相思相愛なのに「何やってんの?」と突っ込みたくなるような歌です。

  あれはきっと何か「人生のけり」のようなものをつける旅立ちだと思う。  それに似ています。

「また格好よすぎること書いて」と突っ込み入りそうやわ・・・・・とにかく、仁義を立てて(爆) 元気をくれた人たち

に感謝と、それぞれに応えていこうという旅です。   報告もちゃんとしていきますね。

心のメンテナンスも随分させてもらいました。ありがとうございます。       (続)
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 孤独な闘いのブログでした。   あまり人を寄せ付けず、生き方も理解しづらいブログでした。

でも、人はやはり一人では哀しい。やはり、人には受け入れてほしいのかもしれない。

ほとんど荒野を歩くようなブログです。   そこに関わる仲間や人は、厳しい環境のなかの虹のような

存在です。  人の嫌な話も悉くしました。  過去の胸に秘めていたことも。  聞くにつらいことも多かったでし

ょう。   でもそれらは、すべて「通過点」だと思ってくださいね。

   人の良いところばかり見続けて、批難をしないように生きてきました。 傷つけるのも傷つけられるのも

嫌でした。  でも、その姿勢がどんどん心を鬱積させていくことに気付きました。 人から嫌われてもいい・・・・

少し、嫌われる努力してみよう・・・・・なんて、変なことですが、そんなことに取組みました。

 心のくたくたになった疲れは・・・・・いくらかとれたように思います。お付き合いくださってありがとう・・・・・

色々な心の病気や身体の病気と闘っている方にも出会いました。  とてもとてもいい人がとても辛い目に

あっていると心痛むけれど、そういえば誰かが言ってました。「世の中には、こんないい人がどうしてこんな目に

」と思うことがあるけれど、それは精神科医だったと思いますがこんな風に解釈するのだと聞きました。

「その人に乗り越えられる力があるからだ」と・・・・・ それにしたって不公平よねえ・・・・・^^

 って最近は、普通に感じるようになりました。  「乗り越える力なんてほしくなかったよう」と・・・・

「神の子にならなくていい」とも・・・・・    でもね・・・・荒野を歩いていると、一つの薔薇も虹も

・・・・・・とびきり、きれいなんだよねえ・・・・・!   散歩をしているのではなく、荒野を息をこらして歩いている

。 時には「斜めになって」歩いてる。  するとね、ふと風が止んだとき、雨が止んだとき、見つけた虹が

とてつもなくきれいなのよねえ!   苦しいことが当たり前になって、生きているとね、・・・・・・

 それを、しあわせっていうかどうかは解からないけど、苦労はたしかに幸せとつながってるって感じるんです。

同じことを加藤諦三さんも言ってました。 そしてね「悩み」と「不幸」はつながってるんですって。

 そう考えるとね、私の中の悩みというのは、訴訟や貧困ではなくて、その前に「打ち明けられないこと」

じゃなかったかと思うんです。  何故か、裏切られてもずっと「心のうちを明かさずにいた」そのことが、深い

悩みとなって「不幸」を呼んでいた・・・・「大きな流れに呑まれる」ということは誰にもあること。

 こうしている間にも、たいていの大きな流れに呑まれながら生きている。 だけど、加速した大きな流れの

間違いを指摘することは、難しい。  溺れながら叫ぶようなもので人は耳を貸さない。貸している暇がない。

でも、こうして心を打ち明けると、一生懸命聞いてくれる人もいた。 何だかわからないけれど応援してくれる

人もいた。  同じ気持ちだった仲間もいた。  訴訟も途中だし、一度は負けたし、貧困もなかなか変わらない

。でも、ここ数年の夢のような現実の日々。 大きな流れのなかで、権力による加速の恐ろしさ。  

「ここまで行ってしまうのか」「止まらずに法的に追いかけたらこんなことになるのか」とてもよくわかりました。

 生死の狭間を生きてもきたので、なかなか「お勉強になりました」とはいきません(笑)

今、たとえば深い悩みの中に閉ざされている人がいたら、 どうかこんな風に考えてください。

その悩みはそんなに大したことではないのだと。  悩みに陥っている自分が大変なのだと。

そうすれば、たとえ解決しなくても「陥ってる自分」を達観することができます。  それがどうにもならない病気

の悩みだとすれば、ちょっと卑怯だけど「夢りんごのように病院を頼れない奴もいるんだ」と考えます。

そうすれば、「自分には選択肢がある」とわかります。 例えば、西洋医学、東洋医学、代替療法、自然療法

・・・・・・すると、病院に通いながらも自分でできることがあると気がつきます。 医師に任せず自分で

調べて行動できるんです。  あなたが化学療法を受けていて「どうも、よくならない。ちょっと違うんじゃないか」

と感じたら、或いはどんどん悪くなる気がしたら、ちょっと止めて違うことをしてみる。 その相談には夢りんご

は乗ることができます^^  或いは自分で何かしてみる。世の中にはありとあらゆる治療があるけれど、

何十年も自分に付き合ってるなら、きっとみつかるはず。 人生を人任せにしないと決めるんです。

  不妊で悩む女性やご夫婦も最近多いけれど、仮に何かの「告知」を受けたとしてもそれは「生理学的」に

だとか「統計上」だと考える。 絶望的に受け止めないんです。  私は二人の子供がいるから、人の痛みは

わからない・・・・でも、自分にしかない痛みを経験しているので、痛みに寄り添うことはできます。

とにかく、一時的にでも寄り添い、そこからどちらかが飛翔するときがくる。  それは悩みから飛翔する時で

状況は変わらないけれど、前に進むことになる。 悩みから飛翔することで人はしあわせに向かえる。

と私は学んだんですけれど、どうでしょうか?          (続)
                                                                                                                                                                                                                           

  

 


 ほとんど、追い込まれた人が行き付く末路のような時代を、何とか生きてきているのには、それなりの覚悟

が必要です。  人というものが「よくわかった」時代でもありました。  「何を考えてるのか」という顔をされた

人も少なからず・・・・・^^  最中はとてもつらいけれど、世の中の人が色々と理解できた時代です。

  時代を正面から逆行していましたね。   なので今も、ほとんど病院に行かずに生きています。

検診・・・・・というものも受けていません。 つれあいが、市の検診に先日やっと赴いたくらいです。でも、もし

大病が発覚しても、病院で治癒する手立てはありません。  もとより、私は西洋医学に疑問を持っていたから

もありますが、心と身体は今のところ、食べ物で中庸に保ちながら自然療法で生きています。  仙人ですね

(笑)  ただ、これは自分でポジティブに考えているからとはいえ、ぼろぼろの身体を起こして生きるのは

大変なことです。  親戚が転移性のがんで大変な思いをしているのですが、私にできることは、自然食品を

提供することと、食べ物で治癒する方法を伝えることだけ。   逆に、病院でだめでも「諦めない」方法を

提供しています。   病院にいくお金がないことから始めた療法ですが、何とか生き延びています。

  こんな人間を相手に裁判されているのです。本部は・・・・・。   「あてつけ」でできることではありません。

もし、そう思ったら実際そこまで追い込まれてみられるといいと思います。 何度死に掛けたことか。

貧困でも前向きになれたのは「富裕層に意外と不幸な人が多い」と感じたこと。  病院も同じです。

医療にお金をかけられる人ほど、病気に嵌っていく・・・・とも思いました。  絶対に病院に行かないのではなく

身体と心の両方を診てくれる医療機関の勉強、 これも裁判所と同じく「納得して自分で歩む」。  と決めて

います。   食べ物は自然に近いもの、旬にとれるもの、できるだけ添加物のないもの、を少しずつ。

すると身体がプラスではなく、マイナスに向いていきます。  何十年も蓄積した、いろんなものが抜ける・・・・

という感覚です。  それでもまだまだ勉強の日々ですが。  考え方は裁判も同じです。  

 手仕事で裁判を作り上げていく。   それは専門家に任せておくこととは違います。  いえ、法の専門家

に任せるなんて・・・・偉そうな身分でもありません。  ただし、協力はお願いします。 知らないことは教えも

乞います。 でも自分たちの人生です。   裁判も病院も・・・・仕事も、生き方をすべて手作りで取組みます。

 当然、食べ物は基本、自分たちで作ります。  すべて、まだこれからです。  つまり、人生をやり直す。

ということですね。  そのターニングポイントがこの数年でした。  そうやっていると巷に溢れかえる物たちが

とてもつまらないものに見えてくる。  ほしいものがなくなります。それは寂しいことではありません。

自分で選んだものが少しずつ手元に残るようになる。 人にも勧めるので人にも伝わる。すると、手元の品が

売れなかったら自分のものになる喜びがあり、売れたら人が喜んでくれて現金化できる喜びがある。

  どちらになっても「幸福感」がついてきます。  これが生活と仕事の同化です。   裁判も同じです。

「幸福感」とは違いますが「人生の修業」と腹をくくる。 そして自分で歩く、動く・・・・確かめる。

 つまり、時間を選んで「苦労」をするんです。 すると勝っても負けても「得たもの」がある。

貧困はもう少し何とかしたいので、勝ちたいけれど、負けても納得できたらそれでいい。 そんな風に生きたら

きっと何かが動くような気がするんです。  裁判以外の闘いもそうです。 銀行の借り入れが返済できない

としても、「どこまでいけば何がおこるか」という気持ちで生きる。すると、どこかで相手がとんでもないことを

したりする。  若い人は事務的に動きます。 一声かけることもない・・・・・すると、喧嘩しなければならないこと

になる。   暴力ではもちろんなく、「いっちょ、やってみる」んです。  遊びではありません。死ぬか生きるか

がかかっているから。  どう治まるかも大事ですが「次から」の姿勢がかわってきます。そうやって、

「つきあっていく」・・・・・これが人生だと思うんですね。   食べれない時代に、「何をどうやって食べるか」

・・・・・大変きつい話しですけれど。                            (続)

今日、ここで伝えたいのは「法的処理」を必要以上に恐れないということです。

もちろん、裁判沙汰など無いほうがよい。 経験のないものには、それだけで怖いものになってしまうし
一巻の終わり・・・・と化してしまいます。   訴状が届いた冬の日のことを私は忘れていません。

  普通は誰彼なしに打ち明けたりしないし、できない。  事業にも、個人的にもマイナスイメージですから。

だから、何でも「大丈夫」とはいいません。  判決はやはり、重いものでもあるかもしれない。

私が、「高いハードルは越えずにくぐる」と話したこと、覚えておられるでしょうか?

プロはハードルを飛び越えようとなさいます。  一年生であれ、ベテランであれ頑張って越えようとする。

でも、私たちは法のプロではありません。 だから、越えなくてよいし厚い壁も破らなくてよいんです。

  力のない人間だと自覚する庶民であれば、高すぎるハードルは越えなくてよい。くぐっていいんです。

それが、本当の「自分の法の道」だと思います。  本当の痛みはどこにあるのか・・・・何が人生をひっくり返し

たのか・・・・どうして自分は歩けなくなったのか・・・・・どうして人を信じられなくなったのか?

 骨の髄まで自分に問いかけることです。    結果・・・・・この人たちはすべて「実験台」になさったということ

がわかりました。   裁判も実験台でした。  おそらく、「法で縛る」方法を専門家から得とくされ、実践なさっ

たのでしょう。  フランチャイズ裁判という舞台を設けたら、脚本はすべて揃えておいた。 その脚本は

暗黙に私たちに浸み込んでいたんでしょう。    但し、その手段については誰からも聞いていなかった。

 ただ、私たちからの裁判は「相手がプロとしてどうだったのか」というのにつきます。

本部の会社を立ち上げて、まもなく加盟店を作られました。  戒律のようなものはなく、誰でも「それなりに」

加盟して、一定の売上が定着したら軌道にのっていく。  という成功への指導料としてロイヤルティを収める

。  本部はやってみないとわからないままプロの名のもとに大きくなっていった。 私たちは加盟店であり、

いいことも悪いことも、本部の都合で優越的に進められては生きれません。とくに、最後の話し合いの

最中に突然切ってしまうというような非情はどうなんでしょう。    少し話しを変えます・・・・・

  裁判所の日程を「楽しみ」でいれる人はあまりないでしょう。  できればスケジュール帳にはないほうが

いい。   でも、どうしても向き合う必要に迫られたら、病院や役所、学校や取引先などと同様、

「学ぶ」覚悟をして向かうといいと助言しておきます。   そして裁判所自体はそれほど怖い場所ではないと

伝えておきます。   勿論、そこに行き付くまで長い時間が掛かるかもしれない。 「法的」というだけで

震え上がる気持ちはよくわかります。   でも、もし、どうにも解決つけようのない出来事になったときは

一端、法廷に預ける選択肢も「悪いことではない」と心、決めることです。  これが自身の不安を鎮めること

にもなります。最初はお金がなかったり、プロ任せになったり、法テラスだったり、なかなか自分だけでは

頼りない世界に踏み込んだことにとまどいます。  はっきりいえば、「弁護士さんに頼る」ことにもなります。

  それがよかったかどうかはともかく、訴訟のハードルはやはり最終的には自分で決める・・・・ことが大事

です。   これは、裁判所だけに限らず、簡単にいえば「病院の治療」なんかも同じです。  「生きるための

責任」は自分で選びます。  歯科で治療を受ける。  医師は「抜歯するしかない」という。  でも、どうにも

そうしたくないなら「別の治療」を依頼する。  抜歯しない治療です。  そうすると「半分なら残せる」とか

「この部位は無理だとか」答えが返ります。  妥協できない時は別の歯科へ移ってもいい。もしくは一端

抜歯の準備をしておいて、「悪くなるかどうか」時間を置くのもよい。  実際私はこの方法で歯科に

通いました。   次に行った時は「抜かないでいけそう」だったりします。  もし抜くことになっても散々やること

やったので「あきらめ」や「覚悟」ができている。  手術や検査も同じです。 痛くて嫌な検査はしなくてもよい

のです。  その代わり、身体の責任は自分です。  医療の訴訟などは、やはり責任が「自分ではない」と

いうことから発生するでしょう。  裁判所などいわゆる「素人」がうろうろすると、迷惑がられたりするように

思う。だから、真面目な人はあまりしない。  登記などの本人申請も同じです。  私もそうでした。

 でも人任せにして、不本意な結果になるよりは、自分で動いて「納得」したほうがいい。  話しをするだけでも

「諦めるか進むか」決めることができる。  私の知る範囲では「きちんと教えてくれる人」もちゃんといます。

なぜならそれは、裁判所の仕事だからです。   弁護士さんや事務所の補助者だけを相手にするのでは

ないからです。 弁護士さんには、お金がないし余計なことを聞きにくい時は裁判所に赴けばいいのです。

そして、仮にお世話になっている弁護士さんがいるときは「お忙しいだろうから、自分で聞いてきました」といえ

ばいいのです。                (続)               






 

長い年月、生きていればこういうこともあるんだ・・・・というくらいの気持ちで乗り切ることが大事なんですが

とくに周囲はそんなにうまくいきません。    「訴訟」など一生、縁のない人も世の中には多いんです。

うまくいけば、そんな風に切り抜けられる人もいるでしょう。   

  大阪地裁には真夏と晩秋の二回、赴きました。  意見陳述と証人尋問です。

正面からみれば、窓がたくさんあって、こんな部屋のひとつひとつで訴訟が行われているんだと思う。

 どちらも、あまりぱっとしない出番でした。  傍聴人はいないか、一人。 部屋はやはりテレビで見るのと

同じ感じでしたか。   裁判というのはいわゆる「喧嘩」ですが、思ったよりも穏やかな喧嘩でした。

 今日、私はひとり、仕事の合い間を縫って、裁判所への道を行きました。  それは、法の専門家に

頼り過ぎないこと・・・・自分の納得する人生を歩むことにしたからです。    少し前、話し合ったのですが

プロにお金を払って、或いは法テラスで助成をうけたにしろ、体験は自分にしかわからない。

専門家に伝わることは、限りあると思ったのです。    何か訴訟をするとか、しないとかに関わらず、

自分たちでちゃんと「構成する」  ことが大切だと気付いたのです。   これは私たちの今の仕事とも

深く関わりがある。   仮にそれが「訴訟」というような、エネルギーを要するマイナス事項だとしても

生活と仕事の一端として、最後まで向き合う。それが大事なのだと思いました。  例えば、人に頼れば

訴額なども、見当をつけて大きく書いてくださったりする。でも実際には、その最高額を勝訴して受け取ること

などまずありません。だから、訴額を大きくすると、印紙代が高くつくし勿体無い。  しかも相手はその額を

見てますます「敵対」するわけですから、関係は一層悪くなります。   こちらの望みではなくても

額が大きいと相手の怒りが大きくなります。   だから、これはやはり自分たちの意志をちゃんと反映させねば

ならないと感じました。  裁判を通じて何がしたいのか?   これも大切なことです。

 私たちはまず、前事業の後片付けです。  相手の出した計画書で借り入れをしているのですから、この

計画が違っていたことで借り入れて待ってもらっている機関に返還したいこと。  同時に、出資者(うちはほと

んど、自分と母のお金)に一部でも返してあげたい。  要するに、この事業で迷惑をかけた人に返還する。

  もちろん、買いかけが「買いかけ金」であるならば、それも返還する。   つまり、マイナスを0にしたい。

それから、精神的、肉体的苦痛を出し切って、生きてる心地のする暮らしに変える。    このブログの役目

でもあるわけです。   鬱積しつづけた人間関係や業の清算です。   ただ、相手と離れるのではなく

そこを、清算してリセットするんです。  そして永遠に縁を切るのです。   金銭も同様に破産したりしないで

マイナスを0にする。  人と話し、伝達しながら、ひとつひとつ解決して行きます。  時には、大声を出して

しまうこともある。   前人未踏の旅です。  失敗を学ぶとはそういうことだと思います。私の裁判所への

道はこれからです。  結果がどうであるかより、納得する道を歩いたか・・・・が課題です。自分の身体で

歩いていくのです。  専門家に力もいただきながら、「任せないこと」が重要です。  人生のハンドルは

二度と人に預けない・・・・・   アクセルも踏ませない・・・・・・   ブレーキはしっかりかける。

判断を自己責任でしていく。  それが、裁判所への遠い道程です。       (続)