忍者ブログ
 痛手を負った身体と精神世界から生きるしくみを 作りなおしています。  人と人がフェアトレード できる社会、幸福感を作ります。
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。



実は、法のハードルは・・・・金がなくても大変なのですが、精神力と体力の勝負です。

こんなことに無縁に生きてきた、一般庶民にとって、目の前にいきなり立ちはだかる「法」の壁は、容易に届くものではなく、越えることなどできません。   このハードルを越えるには、今までの生き方をくつがえすことが大切。    というか、それしか生きる道はありません。

  普通の人間で生きてきた私達にとって、ものの見方を全て変え、世間の常識には目をつむり、人の謗りは多少耳をふさいで、生きかたをすべて根こそぎ変えることしかありません。

  まともに生きたら、言ったように命がいくつあっても足りない。

店頭の書籍に片岡勝氏の「人生のレールを乗り換えてみる」というのがありますが、この本は実は私はまだ読んでいません。でも、レールを乗り換えて生きてきたので、タイトルを見るだけで、通じるものがあります。

 乗り換えるというより、今の場合、「道なき道を拓く」というほうが正しい。   高村光太郎さんの

「僕の前に道はない。僕の後ろに道はできる」というやつです。

  未踏の荒野といえば、かっこいいけど、現実は、ほとほとみすぼらしい、情けない、現実との格闘です。
「生き方をかえる」とは・・・・「見方をかえる」ことでした。

たとえば、洗濯機。  これが水漏れでどうしようもない。  ここ数年、こういう壊れと付き合うしかなかったので
ポンプ(灯油をくむパフパフいうやつ)でたまった水。  溢れた水を吸い込んで捨てる・・・・・手作業です(笑)

実際は笑い事ではない。  疲れてふらふらで、そんなことをするのは耐えられない。  しかし、しないと使えない。(今日はさすがにもう、機械も限界らしく、とうとう洗えなくなった)   しょうがなく、仕事の合い間に洗濯物をコインランドリーへいくことにしました。   冬物のクリーニング。ながいこと出してないので、3割引のクリーニングに行き、費用を聞いてまず、主人の上着を一枚。    という具合に、ひとつひとつを、小さく処理していくのです。     精神力が一番大切。    これを培う方法のひとつは、ことを舞台に置き換えてみる。

  この方法は、実は誰でもできるものではない。   だから、私ができても周囲は、できないこともあります。

現実主義の人間にはなかなかできないことだと思います。   私も・・・・現実とのギャップに気付いたとき
とてつもなく、怖くなる。   それでも、できるだけ、前向きに生きるには、人は見ないで、今の自分を演じきる。

  これしかありません。    これしか、後の人生で振り返って「あんな時代もあった」と笑える方法はない。

この、精神力をつけるためには、時おり現実の暮らしを捨て、ちょっと非日常の自然のなかに置く。

近くてもいい。  米を買わずに、近くてもいいから切符を買う。  そういう試みが大切なのです。

信じられないかもしれないけど、生きるには、萎えずに生きるには、折れないためには必要なのです。

私達はもうサラリーマンには戻れませんでした。   なので、自給自足に近い生き方・・・・店を捨てずに自給自足に近い生き方をするしかありませんでした。

  それが「生活と仕事の同化」です。     これについては、またの機会とします。     

                                                       (続)
PR

流しの桶に洋皿が一枚・・・・木っ端微塵に割れていた。

や!   奴だ!・・・・・と迷わず思ってしまった。   どこの家庭にも多分あるだろう、犬も食わない夫婦喧嘩のミニバージョン。   男はすぐに物にあたる・・・・・ので、カップやコップはよく割れる。

 なので、いつからか家では、いいカップはそこらへんで使わないことにしていた。

二つとないものだったら、取り返しがつかない・・・・昔から、ちゃぶ台をひっくり返すのは、親父の役柄だったが
最近はちゃぶ台もなく、夫婦で投げあいの喧嘩をよく伝え聞く。  最近聞いた話で一番の大物は「電子レンジを投げる奥さん」・・・・・・えらい、元気やなあ!   それに、力持ちや・・・・あとは、壊れんかったかどうか?だけ。

話しがそれました。  気短なので、イラつくと食器の扱いが荒い。(あ、つれあいです)   黙って片付けようとしたけど、一度たしかめよう。
電話で聞いてみた。  「昨日玉ねぎスライス食べたお皿、割ったやろ・・・・」答えはノウ・・・・・覚えがないのか
何なのか・・・・・しかし彼のことなので、割ったら始末だけはしてあるはず。    娘にも聞いてみた。(主人の酒のあての皿なので可能性はなかったが)  やっぱり「知らん」・・・・・しかし、洋皿は木っ端微塵・・・・・

 え?あたし?    私は皿なんて割りませんよ・・・・・腹がたっても、物にはね・・・・だって後が大変だもん。

 どうやら、 振動が大きいうちの家。 どんどん歩いて流し台の真上のコップが、皿に落ちて、皿の打ち所が悪かった・・・・・のが有力。   でも、いつも、物を割る人、しかもその人の使ったもの、誰も流しに行かない・・
・・・・・その人に容疑がかかるのは自然です・・・・・家族はとくに。   でも、ちょっとやはり本人に確かめてみることが大事だと思いました。    例えば、大切にしていたCDが行方不明だと、私は娘かなと思ってしまう。

  実際、娘が聞いてもっていたことも何度かあって。   でも、やはり「知らない」ものもある。  先入観というやつで。   家庭で前科があると(笑)  これは濡れ衣を晴らすのは至難の業。   耳を傾けて聞いてみないとわかりません。   う~ん、これは・・・・・うちの家族は「降りかかる火の粉」をはらうのが下手。

  主人などは昔男の典型で「弁解が嫌い」  でもしてないものは、最後まで「してない」といわないと。

家族の皿一枚なら、まだいいけど、こういう「火の粉のはらい方」は身内同士でしっかり、訓練しておかないと社会だと大変だと・・・・・身にしみて思いました。 う~ん、修業が足りんかったな、うちの一家。

 何をする力もなかった・・・・・でも、そろそろ・・・・片付けよう。  棚の整理して物を避け、拭き掃除しながら
昔の本や雑誌をまとめた。 着ない服も捨てよう・・・・       ええい!もう、根こそぎ片付けよう!

 少しずつ・・・・少しずつ・・・・・はちどりのように、「できること」からはじめよう・・・・・何かひとつ動くと、また何かが変わり、次にすることが見えてくる。     癒しばかりでは前には進まない。

ここで、一度、限りなく良心的に相手の立場になってみます。

実は、この件で私達が最も、苦しい思いをしたのは、「相手に悪気がなかったのではないか」と限りなく、人を信じる人間だったことです。 相手は、「助けたのに」或いは「支援したのに」といっこうに罪悪感を感じていなかったことです。    なので、もう一度、その思いと向き合ってみます。   

 人道的と商業的にの方向から考えます。    ある人が、事業を応援してくれました。  支援して、成功して欲しいと・・・・・まあ、人よく良心的に相手の身になると、指導して一緒に歩もうとしてくれました。

 しかし、その支援の仕方は商業的にはノウハウのない、プロのすることではありませんでした。そして、人道的には、どうにもしようがなくなったのでしょう。解決の糸口を探す途中で取引を一方的に打ち切り、投げ出しました。    そして、相手を加害者として商業上の亡き者に追い詰めました。   百歩譲って、この人の最初の「支援の思い」が嘘のないものだったとします。   この人は「悪いことをしていない」といえるでしょうか。

 その境目でとてつもなく苦しい思いをしました・・・・・そして、ある結論にたどり着きました。「多大な請求書つきの支援はない」      至って簡単なことですが、なかなかたどり着けませんでした。
もうひとつ   「自分の立場が悪くなったからと言って攻撃や脅しに変わる支援もない」  つまり、支援ではなかったということです。    思えば、内装工事のさいも、役員の人が来て、内装のほとんどを決めていきました。 そして、工務店の人に「ここは、こうしてあげて」「これをつけてあげて」と指示をしていきました。(当時はフランチャイズとはそういうものだと思ってました。)   単純なことですが、請求書はこちらにくるのです。  そういうこと一切を「私はしてあげた」とおそらく思っているでしょう。 このあたりの思いが、私にフェアトレードへの道を歩ませることになりました。    果たして支援とは何なのか・・・・・・   途上国の支援とは?   障害者支援とは?   高齢者支援とは?  弱者支援とは?  自分が支援に携わり、また、自分たちも支援をうけてここまできました。    そして・・・・結論はまだですが・・・・少なくとも、たどり着いたことがいくつかあります。

  「頼まれていない支援に対する思いあがりがあってはいけない」・・・・相手のためとは言え「自分がしたくてした支援には、責任もついてくる。」「途中で投げ出すことの非情」「何もしないほうがよかったこともある。」「弱者や困った人についぞ・・・・手を貸すのは人間の長所だけど、見返りを望んではいけない。 」などなど。

 時は五月です・・・・・眩しい青空とさわやかな風。奈良もたくさんの人と鹿で賑わっています。

私にはある人の泣き声が聞こえる時があります。「こんなことになると思わなかった」と子供のように泣く声が。

でも、子供ではなく大人であり、実業家の端くれなら・・・・・やはり、泣いてすむことではありません。


    カナダの友人から、便りが届きました。   あちらでも確定申告で忙しいそうです。

そして、まだ肌寒いカナダの森では、夜ごとフクロウが鳴き交わしあっていると。

日本では、縁起のいい生き物とされますが、カナダでは「フクロウに名前を呼ばれると死期が近い」とされ
嫌がられているそうです。      でも・・・・・

  友人は、フクロウの鳴き交わす森がとても好きだと書いていました・・・・・・

  彼女の好きなイーグルスを今度送ってあげようと思います。   頼まれてないんですけど・・・・・(笑)


  もちろん、請求書はついていきません。           支援の定義ですね^^

                                                   (続)



先月、亡くなった義父の四十九日法要で、再び高速バスで高松~小豆島へ渡りました。

バスは快適で、慣れてきたはずなのに、どういうわけか行きのバス中で、しばらく出てなかった「不安障害」がでてきました。  これは手足がしびれ、震える状態で、当然胸のどきどき感も動悸もついてきます。

  バスの乗り場が以前と違ったことで、会社と交渉しなければならなくなったとか、娘が仕事でちょっと失敗したとかのメールをよこしたこととか・・・・・乗車前後の小さなアクシデントがきっかけになるようです。

  しばらく、おさまらず顔面蒼白。  つれあいが横にいたのですが、あまり頼ると、余計悪化したり
二人とも、具合悪くなることもあるので、できるだけ、気持ちを切り替えて過ごすようにしましたが、今回は結局
四国に渡るころまで続きました。     平気で携帯をいじってる乗客とか、おしゃべりが、とても気になりました。   いわゆる、留守の間に父母がまた具合悪くならないかとか、子供はそれぞれ大丈夫かとか、家のガスや戸締りや・・・・ヒーターや。   心配しても大抵は何でもないことが「絶望的観測」をしてしまいます。

  その夜は満月で、海の向こうから昇りくる、赤い月を見ながら、気分転換につとめました。

高松につく前になって、ワンマンカーの運転手さんが、運転もして、精算もして、降りてトランクの荷物も出して、トイレも行けず、健康管理もして・・・・・と考えたら「う~ん、運転手さんは偉いなあ。大変やなあ」とおもうと
いつの間にかスーっと抜けていったようでした。      風が低気圧の通過で強く、強風波浪注意報のフェリーはまた、若干の恐怖感でした。   かもめが、フェリーのあとから、たくさんついてきて、海面の獲物を取ったりしていました。   ふと、急に涙がこぼれました。   「お父さん、どこらへんにいますか?」海と空の中間あたりを見て呟いてみました。亡くなった実感はまだ薄く・・・・声が聞こえそうでした。

  帰ってみると、やはりどこにもいませんでした。^^    石碑のない墓地は・・・・海の見える斜面にあります。     主人が昔、泳いで渡ったという、向かいの小島が見えます。   対岸は岡山県・・・・・
海のきれいなこんな、場所に眠るのは・・・・しあわせなことにおもえました。  (本人には見えないんでしょうか?)    はぐれたカモメが一羽、  墓地の上空を大きく一回りして飛び去りました。  

哀しいのか、幸福なのか・・・・わかりませんでした。   たくさんの人が集まって、土をかけたり、お米を供えたり、水をかけたりする光景を見ていました。  時代が代わっていくと漠然と感じました。                (続)
 

そんな、哀しいことはいいません・・・・・たいていのことを一度疑う・・・・というのも情けない。

少し違う・・・・と何か感じたら、とりあえずイージーゴーイングにまかせないで、ブレーキをかけることをお勧めします。     何でもなかったら、それでいい・・・・・   

とにかく、以前よりいったん止まって思慮に入る。相手がいらついて地団駄ふんでも、あせってはいけません。

いや・・・・・あせるかもしれない。   自分が悪者になりかけたら、「本当にほとんど自分のせいなのか?」と考えてみるひつようがあるということです。   直情的感情にまかせて、責任を押し付けてくる人がいます。

 それでも「そうなのか」といったん帰って考え直すことが大切です。   自分を棚にあげるのではありません。   慎重に行動する人、人の立場を思える人、そういう人ならなおのことです。 

自分が責任のすべてを背負ってしまわない・・・・・そういう人に世の中は責任をおしつける傾向にあります。

それと人をかばうこと。   私はよくあったのですが「不公平」をかばうと、自分に矛先が向けられます。

だから、みんな、ナガイモノに巻かれていく。  「ちょっと変」と思って人をかばうと自分に矛先が向けられます。これ・・・・・世の習い・・・・・「それは不公平じゃない」と口を挟むと必ず「じゃ、あなたがしなさいよ」となります。必ずなります。    必ず・・・・・これが、仲の良い人から向けられる何故か・・・・・

公正に解決するときは、私情をすてること。   揉め事が数倍大きくなるし、親しい人が急に敵に見えるショックも重なります。     この、後者の痛みの大きさも経験しました。     

 人を信じないでいればいいのか?   そうではなく、少なくとも人は「変わる」ことも範疇にいれておくことです。


(続)